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「信仰をつかむ」20220918
「信仰をつかむ」20220918
聖書 マルコ福音書 九章十四節〜二十九節
「信仰」と「信心」という言葉を分けて使っています。先週はこの言葉の使い分けの意味が判らないという質問を受けました。とても重要なことですので、一緒に考えて行きましょう。
他の牧師はどのように教えているのだろうとユーチューブを見てみました。ある牧師に言わせれば「信仰とは唯一の神を信頼することで、神の約束がその通りになると信じること」だそうです。また「信仰は神からの賜物(贈り物)で、神に属する者と属さない者を分けるもの」らしいです。もしそんなものならば、信仰を人間に求める宗教は論理破綻しているとぼくは思いました。とにかく、いいかげんな情報です。
ぼくに言わせてもらえば、「信仰」は関係状態を表現する言葉です。後で詳しく説明します。
これに対して「信仰心(信心)」は関係ではなくて、方向性のある行為を表現する言葉のように思います。たとえばストーカーが一方的に思いを寄せ、勝手に思い込む様子と「信心」に励む人は似ています。関係が成立していなくても思い込みや信心はあり得ます。
さて今日は「イエスは信仰心のない者を救った」という題の九年前の説教ををマイナーチェンジしました。信仰を取り上げているからです。
【弟子たちにはできなかった】
イエスがお気に入りの弟子三人を連れて山隠り(やまごもり)していた間に、残された弟子たちの元に息子の病気を治してほしい人が来たようです。弟子たちはなんとかしてやりたかったようですが成果は出なかったようです。
【イエスの対処】
不甲斐ない弟子たちが法律の専門家たちに責められていた時に、イエスと供の三人が戻ってきました。
「何があったのか」と問いかけたイエスに「息子に取り憑(つ)いている霊をおいだしてくださるように弟子たちにお願いしたのに、できなかったんです」と、男が答えました。
イエスは「なんと信仰のない時代だろう。いつまで君たち(弟子たち)に我慢して一緒にいなけりゃならんのか」と、嘆いたようです。
そして、イエスはその子を連れて来させて、父親に症状を尋ねました。息子の症状を説明した後に「もし、お出来になるようでしたら、わたしどもを憐れんで助けて下さい」と、父親は言いました。弟子たちができなかったということは、先生も大したことないかもしれない、と思ったのでしょう。
「『できるんなら』と言うのか」と、イエスは即座に反応したようです。なんか怖い言い方のように響きます。「信じる者には何でもできるわい」と凄(すご)んで見せたようにぼくには思えました。恐ろしくなった父親は「信じます。信仰のないわたしをお救い下さい」と辻褄の合わない言葉で叫んでいます。
息子の病気を治してほしかった父親が「信仰の無いわたしを救って下さい」と開き直ったところがいいですね。このような父親の姿勢を追求することなく、イエスは子どもから穢れた霊を追い出してあげたのだそうです。
【信仰心と信仰を分けて考えよう】
奇蹟話がお好きな人は、癒(いや)しの噺(はなし)をきくだけで満足なさるでしょう。けれどもぼくは納得できません。
奇蹟話よりも、その前後関係が重要だとぼくは思います。
今まで聴かされて来た説教では、「『できましたら』と言うのか」とイエスに諭された父親が、「信じます。不信仰なわたしを救って下さい」と言って回心した。その父親の信仰に応えて、イエスが奇蹟をなさったというようなものばかりでした。
奇蹟を起こすほどの熱心な信仰を好きな人が多いようです。しかし信仰が有るとか無いとか、信仰が深いとか浅いとか、そのようにみなさんがおっしゃっている「信仰」という言葉を、ぼくは「信仰心(信心)」と呼んでいます。
「信心」ならば厚いとか薄いとか、熱心だとか不熱心だとか言えます。しかし、ぼくがいつも言っておりますように、聖書の中に出てくる大切な言葉の多くは、関係の状態を表現しているものです。「信仰」という言葉も、信じ込む心の強さなんてものじゃありません。
【パウロの「信仰」理解】
西南学院で青野太潮先生に指導していただいて「パウロの『信仰』理解」という卒論を書いた時に、パウロが使った「信仰」という言葉は、「受け容れられていることを受け容れる」そういう関係状態を表現しているのだと学びました。
一般的には不信心(不敬虔)な者は義とされないで、信心深い者が義とされるものだと、考えられています。けれども、パウロの言葉に「不信心(不敬虔)な者を義として下さる方を信じる人は、(働きがなくても)その信仰が義と認められる」(ローマ四章五節)というのがあります。
パウロは、不信心な者を、そのままで義として下さる、つまり、罪がない者と扱ってくださる方がいる、という普通にはあり得ない扱いに対して、そのまま甘えてしまうという、これもまたあり得ない関係が成立している状態を「信仰」という言葉で表現したようです。
一言で神と言いましても色んな神がありますが、パウロが見つけたのは、現状の人をそのままで認めてくれる神だったのでしょう。そしてそんな神と人間が互いにそのままを認め合う関係状態をパウロは「信仰」と呼んだのです。このような関係状態を人と人の関係で表すならば「愛」です。熱心であるか真面目であるかに関わらず、とにかくそのままで認める関係状態です。
真面目で熱心な人だけが救われるというのは社会のお決まりの考え方です。みなさんはそんな考え方に完全に侵(おか)されています。だから、今日の噺に出て来た父親の言葉を読んで「わたしは、信じていませんでしたけれども、回心して信じます。信じますから救って下さい」と勝手に読み替えてしまっているのでしょう。つまり、「イエス様は、お出来になる」と信じ込んだから、イエスは息子をお癒しになったんだ、と勝手に思い込んでいる人が多いはずです。
しかし、信じたからそうしてやった、というのは、ギブアンドテイクです。商売人の考え方です。信仰は商売感覚では理解できません。
【不信仰な者が救われる】
父親の言葉をそのまま読めば「信仰深くない不信仰なわたしを救って下さい」という意味です。これに対してイエスは父親が不信仰であろうがなかろうが、子どもを癒してあげたのです。
救われるはずないと思っていた者が救われる。これぞ福音です。だから、わたしでも救われる。これが福音です。あなたも、そのままで、大丈夫だよと言われる。これが福音です。「不信心な者を救ってあげる」これぞ福音です。すべての人を救い得るのがイエスの福音です。
【ぼくたちは】
熱心に祈る信仰心なんか無くても救われる。だから、ぼくでも救われました。イエスの福音なら誰でも救われます。ですから、イエスの福音を大切にして生きて行きましょう。信心を求めないイエスの福音を、恥ずかしがらずに、必要としている人々に伝えてあげてください。