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「丁寧に聖書にとりくみます」20220626
「丁寧に聖書にとりくみます」20220626
聖書 テモテへの手紙二 三章十三節〜十七節
ロシアのウクライナ侵攻が始まって四ヶ月。日本の国防を真剣かつ緊急に考えざるを得なくなったこの時に参議院議員選挙が始まりました。敗戦後に腑抜けにされた日本の政治にとって大切な選挙です。しかし、今回の選挙の目的を注視している有権者が少ない現状を心配しています。政治家の言葉を使えば憂慮(ゆうりょ・心配不安に思うこと)している、ということです。偉そうに言ったものの、ぼく自身も、この年齢になるまで、政治の仕組みやその裏側を考えることはできませんでしたから、このような現状であることもしょうがないと思うんです。とは言え、十八歳の若者も投票できるようになったんですから、投票制度を変更するだけじゃなくて、日本の政治の仕組みや国民としての自分の関わり方や責任を理解できるようになる教育を併せて実施する必要があります。
街ゆく若者にインタビューしている様子などをニュースで見ますと、思考停止しているんじゃないかと思えます。
しっかり考えることを避けて、アニメ(動的漫画)やルーズファッション(ゆとり、というよりも、爺さんのぼくにとっては、だらしない感じ)に流されている若者たちを見ると、行く末を憂慮せずにはおれません。
言いたいことはいろいろありますけれども、だらしない状況は今に始まったことじゃありません。これほどじゃありませんでしたが、六十年以上も前からぼくも言われ続けて来たことです。
それにしても、近ごろ強く感じるようになったのは、騙されていることに気づかない人があまりにも多いという事実です。なによりも、騙される可能性があることに無防備すぎます。
こんなふうに注意しましても、聴いてくれる人が少ないのは、騙すとか騙されるという言葉が否定的な表現なので、受ける側が喜んで聞けないという意識も関係しているんでしょう。騙されるなよ、という言葉を信じずに、騙される人が多いことに呆れてしまいます。
【聖書は丁寧に読むべき】
さて、聖書を読む時にも気をつけなきゃいけませんよ、とぼくは常々言っております。とはいえ、今日も聖書を読んでもらいました。聖書を朗読してもらってから、その内容を取り入れた説教をするのが教会の礼拝の常だからです。
多くの場合は、説教者が言ったことを保証する証拠として、「ほらほら、聖書のここに書いてあるでしょ」というように用いられております。あまりにも権威がない説教者が、説教を少しでも権威づけようとしているのでしょう。
聖書は、なんと言いましても、長い歴史を持った古い書物です。古いだけでも権威がありますから、聖書の中には、モーセは、預言者は、イエスは、パウロは、こう言ったと書いてある、と聖書の言葉を引用するだけで、聴いている人は、ああそうかいな、そんなもんなんだな、と思いやすくなるようです。
聖書に書かれていることは、間違いのないことだから無批判で読まなければならない、と教える教会が圧倒的に多いですから、多くの信者は、そのまま信じようと努力されているようです。ですから「聖書にこう書いてある」という教え方は説教者にはとても都合がよいのです。しかし、そう簡単に使ってよい言い回しではないはずです。
ぼくが卒業した二つ目の神学校の西南学院大学神学部で当時助教授だった青野太潮先生(現 名誉教授)に聖書の読み方をご指導いただいてから、聖書を丸呑みせずに、丁寧に読まなければならない事実を学ばせていただきました。批判的に読むと言いますと反発されますから、丁寧に読むと言い換えております。
【日本料理のように説教を作る】
丁寧という言葉を聞きますと、日本料理を思い浮かべます。
魚を料理すると言いましても、さまざまな想像をすることができます。刺身にするか煮付けか焼くか、魚の種類だけではなく部位によって処理の仕方も包丁の入れ方も異なります。丸呑みにできるものもありますけれども、丸呑みにしたら大怪我をするものもあります。丁寧に身を外さなければならないもの、小骨を一本一本抜くものや、細かく骨切りするものなど、いろいろ工夫して、丁寧に扱うだけの価値があります。
聖書を魚のように扱うな、とお叱りを受けそうですけれども、丁寧に扱うという意味を伝えたいだけですのでご容赦願います。
聖書も、丁寧に扱って、その部位にふさわしく料理すれば、美味しくいただけて満足できて、健康な体を作るのに役立つ。そんな説教を作ることができるはずです。
煮ても焼いても食えないという言葉がありますけれども、たとえ素材が良くても、下手に料理すれば食えません。料理人の発想の転換と腕次第では、どんなものからでも美味しい料理ができる可能性があります。
とにかく海のものか山のものか野のものか、いつの季節のものか、誰が食べるのかなど、素性に合わせて取り組めば、日本人の口に合う美味しい料理ができるように、聖書もどの素材をどのように使ってどのように料理して、現代の日本人の耳に合う説教を作るのかが説教者としての腕の見せ所です。それでも、できるだけ善い素材を使うに越したことはありません。逆に捨てる勇気も必要なんでございます。
【ぼくたちは】
司会者に今日読んでいただいた聖書の箇所を、今まで使った覚えはありません。「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ・・・」と書かれていますように聖書の権威を裏付けするために霊が持ち込まれているからです。見える聖書を保障するために、見えない神の霊を持ち出していることがぼくには腑に落ちません。このような言葉を信じて、そのまま丸呑みにしてしまうと大怪我をする可能性がある、ということを示す例として今日はこの箇所を選んだだけです。ここを鵜呑みにすることをお薦めするつもりはないので、くれぐれもお間違えになりませんように。
実は、ぼくが普段持ち歩いている聖書にテモテへの手紙は含まれておりません。普段は読まないので、軽くするために切り離しただけです。
説教準備をする金曜日に、普段は使わない聖書の箇所に目を通しましたが、イエスの人と成りが伝わるような記事はまったくありませんでした。神的なキリストが語られているだけで、人間イエスを感じられないので疲れました。福音書を読むのとは大違いです。
聖書は・・・有益です、と書かれていますが、それだけでは体の中に入って来ません。全てが善いものだとは言えないものも含まれています。書かれた時代も場所も著者もちがうのですから、それらを吟味しないままで、丸呑みにすることは害にすら成り得ます。
ぼくは、丁寧に吟味して体に入れて良いものを選び、丁寧に料理して美味しくいただけるように処理して皆さんに提供したいと考えています。イエスが本当になさったことを知り、ぼくたちもできることを気付かされ、自分たちの生き様を通して、福音(善い知らせ、正しい情報)を伝える者になりたいと思っています。内実のない美辞麗句に誘われて騙されないように、これからも丁寧に聖書を読んでまいりましょう。