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「誘惑を避ける」20210926

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「誘惑を避ける」20210926

聖書 ルカ福音書  十三

 

 ぼくたちは「主の祈り」を、独自の言葉に変えて「主イエスの祈り」(二〇〇六年、改訂二〇一四年三月)として実施してきました。この祈りはマタイ福音書六章九節〜十三節にもありますけれども、本来のものに近いのはルカ福音書十一章二節〜四節のほうだと考えられます。とにかく、自分が幸せになるために祈る人が多いですが、イエスは社会の安定を願って祈ったようです。イエスの祈り考えている時に、別の物語と非常に関連しているように感じました。それは、イエスが荒野で誘惑を受けたという記事です。

 ちなみに、マルコ福音書にはイエスが四十日間サタンから誘惑された、という程度しか書いていません。マタイルカには相当長い誘惑の物語が描かれています今回はそれらを比べることが目的じゃありませんので、とりあえずルカの記事に沿って話を進めます。

 

【悪魔の誘惑の物語】

 四十日間の断食を終えたイエスに「神の子ならこの石にパンになるように命じたらどうだ」と悪魔が誘惑します。ここには、「お前が神の子ならば」という条件けられておりますことに引きずられて、読者も「神の子なら、それくらいできそうだ」という錯覚に陥ります。

 悪魔の立場から、「どうせ神の子ではないから、そんなこと不可能でしょ」という嘲(あざけり)が表現されているように感じます。これに対してイエスは「人はパンだけで生きるものではない」(申命記八章三節)という言葉を返します。イエスの返答に神の子であるかどうかという判断が含まれていないことは重要で

 パンすなわち食物を採ってしか生きられないことは重々判っているけれども、それだけでは生きていることにならないと言うのですから、イエスの言葉の中には、命を生きながらえさせることだけではなくて、生かされていることの意義が大切だという主張があるでしょう

 宗教の神には自分を助けてくれる力がないと悟り出した現代人には、神よりも金を手中にすることのほうが確実であると思えるのでしょう。悪魔の言葉を現代風に置き換えれば、生きていくためにこの石ころを金(かね)に変えてみてはどうかという誘惑になるでしょう現代人は鏡ではなくてお金をご身体にしているのが実態です。生活していくために金を手に入れることは必要だけれども、そのためには何でもする、などということになれば、人間性を失ってしまいます。そうならないように、という現代人にもおすすめできる言葉だと思います。

 騙されやすいぼくたち庶民には縁遠い教えかもしれませんが、宗教の神や神の子ように大きな権力を手に入れた者が、何でもパンや金にかえてやるという姿勢をひけらかすことに警鐘をならしているのだと思います。

 次いで悪魔は一瞬の内にイエスを天高く引き上げて世界を見せたのだそうです。ぼくら打ち上げられるロケットの中から写した映像を見た経験がありますから、そのような想像をすることができるのですが、当時の人はどんな想像をしたのでしょうか。鳥瞰図(ちょうかんず)のようなものを想像できる人がどれほどいたか疑問です。とにかく悪魔は「わたしを拝むならば、わたしに任されているこの国々の一切の権力と繁栄を与えよう」と言います。

 自民党の総裁選挙の投票結果が二十には判るように、今も権力の奪い合いが続けられております。何がしたくて権力を得ようとしているのでしょうか。自分の腹を満たすために石をパンに変えたいのでしょうか。権力の座に就くために、自分の先にいる権力者にへつらい賛美して拝むようでは、先の権力者と同じようなことしかできいことは目に見えています。

 この世の権力を得るために悪魔を礼拝したのでは、悪魔と同じようなことしかできません。そんなことでは人間として生まれてきた意義がありません。

 イエスは「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」という聖書の言葉を引用して答えたと描かれています。神を知ることなどできない状態おっしゃった言葉ですから「どんな人にも、また、悪魔のような権力者にも仕えませんよ」というイエスの姿勢が語られていますすなわち、仕えることも仕えられることも、神を利用することもしません、といのがイエスの生き方なのだということです。

 さらに加えて悪魔はイエスを神殿の頂に立たせて、「神の子ならここから飛び降りてみろ。神は、あなたの足が石に打ち付けられないために、天使たちに命じてあなたを支え守らせるだろう」と言います。

 悪魔はまたもや「神の子ならば」という条件をつけていますが、イエスはこの条件を無視して、自分が神の子であるなどという主張をしません。イエスは「あなたの主である神を試してはならない」(申命記六章十六節)反論したと描かれております。

 「神の子」というフレーズがとても大事であるかのように錯覚している信者が多いですけれども、この物語は、「イエスが神の子であるという主張を全くしておりません。イエスはそんなことに全く関知せず、人としてのありようを語っているだけす。

 普段の祈りの中で、まるで飛び降りても怪我しないようにしてください言うのにも似た、とてつもないほど欲張ったお祈りをする人が多いですけれども、そんな祈りはまさに、神が自分の味方かどうかを試しているようなもので常の願いとは言えません。

 イエスが受けた悪魔の誘惑物語は、マルコが伝えた誘惑の記事に、尾鰭(おひれ)をつけたどころではなくて、まったくの創作でしょう。しかしそこにはもう一つの記録が生かされているように思います。それが主の祈りです。

 

【イエスの祈り】

 そこで、初めに紹介したイエスが弟子たちに教えたいわゆる「主の祈りに帰ってみましょう。

 「父よ。あなたの名が崇(あが)めあなたの国になりますように」という願いは、どんな人の支配も、もちろん悪魔のような権力を傘に来た者の支配も受けず、さらに自分が権力を掌握(しょうあく)することを求めないという意味です。そして日々の糧(かて)で満足し、互いに負い目を作らないと続いています。さらに最後に最も大切なことが書かれています。それは「誘惑に陥ることがありませんように」という、自分戒(いましめる言葉です。

 

【ぼくたちは】

 もとより、ぼくらは強大な権力を持っていません。けれども、三歳児を殺した男ように、誰もが小さな権力を持っています。ぼくのような老獪(ろうかい・経験を積んで、非常に悪賢い)になりますと、若者の心を操(あやつ)ることなど造作ありません。そうであるからこそ、自分の欲を満たすために、簡単に弱者を騙したりせず、自分の権力の下にある者を助け守り育て、強めることが、ぼくらには求められているのです。

 誘惑に遭わせないでくださいという祈りは、そういう自戒を込めた願い他なりません

 宗教界を含む権力志向の強い現実社会では、下部の者が異常なほど激しくイジメられています。今こそ「誘惑に遭わせないでください」とる姿勢に全ての権力者を立ち返らせるべきです。

 

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