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「教えられたことを疑って確かめよう」20190811

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「教えられたことを疑って確かめよう」2019年8月11日

聖書 マルコ一 二十一節~二十八

 

 八月十五日が近づきました。社会科の授業では第二次世界大戦と教えられて来た戦争が終戦を迎えた日です。この戦争を東條英機内閣では大東亜戦争けていたのですが、ぼくはこの言葉を教えられていませんでした。父はシベリア捕虜の経験者ですので、あれは「大東亜戦争だ」と言っておりました。今はその意味が判ります。ところで何人の日本人が先の戦争の犠牲になったか、知っておられますか。正直なところ詳細にわかっていないことが多いのですが、三百万人以だと言われております。

 さて、日本は現在「平和なんでしょうか。平和の定義の仕方はいろいろあります。千差万別なので、どうとも言えますけれど、平和だと感じている人が多い思います。

 突然にガソリンを撒いて火を付けるような輩(やから)がいますけれども、戦時下の地域よりは、害を受ける心配が少ないことは確かです。しかし、現状になるまでに日本は、先の戦争で三百十万人の犠牲者を出した経験したという事実は重要です。戦争体験者が少なくなったのでしょうがないですけれども、普段は忘れているのが現状です。しかし、現在の平和を語る時には、いつも意識の中に覚醒させておかなければならないことです。なぜなら戦争を経験した後に現在あるからです。たとえ悲惨な経験であったとしても、その事実を認めなければ、現在の自分を否定することになるからです。

 先の戦争があったから、現在があるのだ、と言ったからとて、戦争を美化していません。善し悪を抜きにしてそういうことがあったという事実の上に現在の自分たちがあるのだという認識だけ持っておく必要があるということです

 

【占領下で】

 先の戦争の結果、昭和二十年(千九百四十五年八月十五日に終戦を迎えて、連合国軍を代表する米国の占領下日本国民は置かれました。そして占領下日本で、アメリカは民族統制するための様々な手法を試み(実験)ました。日本国民は、アメリカの占領政策の下で大人も子供も教育されんです。

 終戦と被占領によって、戦争末期の過激な軍国主義から日本国民は解放されました。しかし同時に、占領アメリカの統治下に置かれたということを自覚しておかなければなりません。

 戦後約七年の占領時を経験して、サンフランシスコ講和条約の発効(千九百五十二年四月二十八日)により、日本は主権を取り戻しましけれども、占領に巧みに刷り込まれた意識が続く中で現在の日本形成されて来たんです。被占領終わってからもアメリカの占領政策の後遺症は続いています。後遺症というよりも、当初から現在にるまで続く占領政策が採られていたと言うべきです。

 サンフランシスコ講和条約発効の二週間前に生まれたぼくは、戦後教育をまともに受けて育ちましたから、アメリカに対して好意的でした。テレビの普及とともにアメリカのドラマで育てられました。うちのパパは世界一という番組でアメリカの良さを刷り込まれました。コンバットという番組でアメリカ兵を好きにさせられました。小学生の頃にはアメリカの小麦粉で作られたコッペパンで育てられました。

 初めて教会に行った中学二年生の頃には、宣教師とケーキとクッキーに魅了されました。ハリウッドの映画で洗脳されて、アメリカ大好青年になっていました進駐軍と共にやって来たキリスト教アメリカのカッコいい宗教でした。クリスマスにはホワイト・クリスマスを夢見ていました。

 

【アメリカの幻想が壊れた】

 それから随分後になって、ぼくが歳をとってから知ったのは、ぼくたちが給食のパンで育てられたの、アメリカの農業政策の一環だったことです。アメリカの思惑(おもわく)だったことを知った時にはがっかりしました。アメリカに都合のいい日本人を作るために、本当に様々な政策が行われていたことに驚きを禁じえません。勝者の(商社の?)罠に、まんまとはまっていたことを知ってからは、他のことに対しても、幸いにも疑念を持って見ることができるようになりました。それまでは刷り込まれた多くの概念に囚われ生活してきたんだなあと思います。

 アメリカのそのような占領政策の下で、「今の日本の平和があるですけれども、もうそろそろぼくたちは目覚めて、自分のために自立して、自分の考えでこれからの生活を建てあげて行くべき時だと思います。

 

【キリスト教教義ではわれない

 ぼくは高校卒業後、一旦は大阪工業大学に進学しましたけれども、二十歳で東京の神学校(東京キリスト教短期大学)に行きました。東京での四年間でいわゆる福音派と呼ばれる教会の神学をみっちり学びました。もちろんぼくのことですから、完全に刷り込まれたわけじゃありませんキリスト教十分教え込まれましたが聖書が誤りなき神の言葉である、という教会の教義だけには納得していませんでした。しかし、異議を唱える根拠を示すことできませんでしたから、多くの信者さんのように、そんなもんかな、という程度落ち着かせていました。

 聖書が歴史の中で編纂されたものであることや、内容にさまさまな違いがあることや、一語一語にそれぞれの背景があること、著者の中には反目しあっている人さえい、という当然のことに気づかせてくださったのは、西南学院大学の青野太潮先生でした。西南学院大学神学部での学びによって、聖書には誤りがないという聖書無謬(むびゅうせつ)聖書主義というキリスト教教義異議申立てできるようになりました。だからと言って、聖書を軽視していません。とても大切にしています。もちろん、神の言葉として、じゃなくてあくまで大事に受け継がれて来た資料としてです。その点が多くの信者さんに受け入れ難いことは判りますけれど、この聖書だけが神の言葉である、という告白は教会会議で決定されたことにすぎない、という当然のことを理解し、説明できるようになっただけです。

 それでも、キリスト教の信仰の真髄は、ペトロが告白した「あなた(イエス)こそ生ける神の子キリスト(メシア・救い主)です」という告白であると信じて、それを伝えるために牧師として世に出ました

 牧師として多くの経験もし、牧師以外の職に就いて社会経験もしましたが、何よりも大きい転回を経験したのは、西野バプテスト教会に牧師として返り咲いてからのことです。

 

教義の福音ではなくイエスの福音

 西野バプテスト教会の説教を作る中で、新たに語りかけるマルコ福音書に出会ました。マルコ福音書を読み込んでいく中で、特徴ある表現たくさんあることに気づきました。マルコは他の福音書の表現や主張と随分異なっていました。そして、今思いますのは、マルコはいわゆる教会という宗教組織に対立するつもりでイエスの物語を書いたんだろうということです。

 ぼくの説教は、教会組織が作り出したキリスト教という宗教に対立する内容になることが多いですけれども、マルコがそうだからしょうがないんだと思ってください

 教会の中で育てられたマルコですが、教会という組織の運営に疑問を感じたんでしょう。イエスの教えとは、はたしてどういうものであったのか、という問から出発して、イエスの行状を調べたんでしょう。そして、マルコ自身もかされたことを物語形式で表現した。それがマルコによる福音書だと思います。それまでに書かれていた手紙形式の文書には、キリストと告白されているイエスは登場していますけれども、イエスの人間としての生き様が見えません。「イエスこそキリストである」という告白がキリスト教の教義の中心であるにも関わらず、人間イエスを感じられないことで、イエスに焦点が合わされていないことにマルコは不満を感じたんだろうと思います。

 現在の教会を見ても判る通り、説教者や信者の多くは、キリストを主語にして語ります。キリスト教の教義にどっぷり浸(つ)かった者の言葉ですから、たとえばヨハネ福音書のようにイエスの行状を伝える文章の中にも人間イエスではなくて、神の子キリスト・イエスの行状として伝えます。しかし、不可能がない神の子キリストには、ぼくたち人間と共通するものは何もないと思います。

 はっきり言って、キリスト教という宗教の教義がぼくの心に訴えてくるものはありませんでした。しかし、マルコ福音書が伝えたイエスの言葉や仕草心が動かされました。マルコのイエスが示してくれた福音は、決して難しいもんじゃありませんでした。

 イエスが活動を始めた最初に、カファルナウムの会堂「ナザレのイエスよ、かまわないでおくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体はわかったよ。神の聖者でしょ」とイエスに食ってかかった男に、「黙れ。この人から出て行け」と言って、穢(けが)れた霊を追い出した事件が紹介されています。

 イエスをキリストであると告白しなければ人は救われないという教会の教義があるにも関わらず、この物語イエスはこの男に告白さえ求めず、何の変化も求めていません。男が正気に戻って、人間関係を回復するために男がしたことは何もありません。イエスは変化も求めずに、あるがままの人に対応なさっただけです。教会の教義を信じなければならない、と教えられましたけれども、それは、イエスのと関係なさそうです。

 

【ぼくたちは】

 イエスはキリストですと告白できなければキリスト教でないならば、ぼくたちはキリスト教徒と言えないかもしれません。じゃあ何なんだ、という質問が先々週から出ております。まだうまく表現できませんが、あるがままでいいんじゃないでしょうか。定義づける必要も感じません。こうであらねばならない、と教えられたことを鵜呑みにせず、疑って確かめましょう。刷り込まれたことを、文字通り洗い流し、洗脳して、新たに自分の思いのままを告白すればいいんだと思います。

 

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