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「反発も良し」20210725
「反発も良し」20210725
聖書 創世記 三章 一節〜 七節
たとえ聖書であっても、物語は物語として読むべきです。物語は事実に影響されていますが、出来事そのものではないので、事件報告のように読んではなりません。今日読んだ聖書では言葉を話す蛇が登場していることから判るように、絵本や童話を読むように聖書物語を読めばいいんです。
小説でも同じですが、物語には著者の考え方や主張が展開されているのです。ノンフィクション(事実に基づく記録)というジャンルであっても、それらを纏めた著者の意見が反映しています。一つの事件に関する報道でも、新聞社によってぜんぜん異なる印象を与えますし、学術論文でも派閥の異なる学者は対立する結果を発表します。567についても五輪についても、意見はさまざまです。ましてや宗教ということになりますと、対象として捉えようのない神さまや仏さまやそのほか八百万(やおよろず)の神について語っているのですから、主張も八百万です。ですから、このようなものに対してどれが正しいか間違っているかなど判るはずありません。判るはずのないことを判断しようとすることこそ、強いて使いたく無い言葉で言わせていただきますと「間違っている」のです。
【童話のように読めばいい】
さて先週に続き今日も創世記の神話を読みます。実際の出来事じゃなくて、神話ですから、登場人物たちは架空のキャラクターであることを、くれぐれもお忘れになりませんようにお願いいたします。本当にあった出来事ではありませんから、話の中に巻き込まれないで、一定の距離を置きつつ読まなければなりません。
そういう前提を踏まえつつ、エデンの園の中央にある木の実だけは食べるな、と命じた神に叛(そむ)いてアダムがその実を食べたという話を考えてみます。
【話す蛇】
今日の物語の特徴は、言葉を話せる蛇がキャラクターとして登場することです。主なる神(ヤハウェ)が造った野の獣のうちで最も賢いと紹介されております。賢さも使い方によって意味が変わります。蛇の場合は賢いというよりも狡猾(こうかつ)であった。つまり悪賢かったと表現するのが似合っています。
蛇はまずアダムと一緒にいた女を誘惑します。なぜ蛇がそんなことをしたのかという理由は示されておりません。神話には、童話と同じように筋が通らないことがいっぱいあります。ですから無駄な詮索(せんさく・細かいところまで突き詰めて問うこと)をなさらないようにお願いいたします。
蛇をまるで悪魔の化身のように説明する人がおりますけれども、そうだとすれば、悪の存在を神が造ったことになります。全知全能の神の失策(しっさく・しくじり)ということになるので、これも詮索しないで話をすすめましょう。
【蛇の誘惑(ゆうわく)】
それにしても蛇の誘惑は巧みです。どんな人がこんな論法を考えよるんでしょうかね。
人を混乱させて何かを売り込もうとする詐欺的(さぎてき)なセールストークを勉強したい人には打って付けの教材です。もちろん、騙されない方法を勉強したい人も読むべき書物です(笑)。
それにしてもたくみな誘惑ですよ。直接的な言葉で誘惑しません。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神はおっしゃったのですか」と女に問いかけて返答を呼び起こします。もちろん物語の中の神はそんな言葉を発しておりません。だれも言っていない言葉だと知っていながら、わざとこのように尋ねたんです。すると女は、蛇よりも自分の方が神の言葉を正しく知っているんだよ、と言わんばかりに「(いえいえ)わたしたちは園の木の実を食べてよいのです。ただ園の中央の木の実だけは食べてはいけない、触れてもならない、死んではいけないから、と神はおっしゃいました」と応えました。
よけいな言葉を言ったもんです。神の台詞(せりふ)に無いことまで言っちゃったんです。
女の言葉を聞いた蛇は、女が調子に乗って来たことを感じ取ったので「決して死ぬことはありません。それを食べると目が開き、神のように善悪を知るものになることを神はご存知なのですよ」と言ったんです。
大胆にも蛇は、神の言葉を完全に否定したんです。さらに、神は都合の悪いことを隠しているかのように仄(ほの)めかしたことによって、神の言葉よりも自分(蛇)の言葉の方を信じるように女を誘導したんです。蛇が実際に誘惑したのはここまでです。蛇は「食べても死にまへん」「食べたら目が開いて善悪がわかるようになりまっせ」とまで蛇は言ったのです。しかしそれ以上に「さあ食べなはれ」と言っておりません。蛇は嘘を言っておりませんし、食べることを強要してもおりませんから、詐欺罪には当たりません。
あとは女の問題です。神を疑うようになった女が、あらためてその木を見ると、美味しそうな実がなっているじゃありませんか。女は誘惑に負けてその実を食べてしまうんです。女は食べ物の誘惑に弱いという批判もあるのでしょうか。それはさておき、この果実に毒はなかったようです。実を食べても女は死ななかったんです。初めてここを読んだときに驚きました。神の言葉を信じられないと思いました。
死なないことを知った女は、神を一層信じなくなるのは当然のことです。それで、一緒にいた男(アダム)を悪の道に誘い込んで同罪にしようとします(笑)。アダムは女の誘いにまんまと乗ってその実を食べてしまうんです。多くの人が経験したことがありそうな、まことにわかりやすい筋の物語です。
【神よりも蛇】
ふたりがこの実を食べ終わると、二人の目が開いて自分たちが裸であることに気がついたというのです。お互いの違いを気にして自分を隠さざるを得なくなったということでしょうか。
いずれにしても、二人は死にませんし、お互いの違いまで見えるようになり、自分のしたことが恥ずかしくなって、神にも身を晒せないようになった。つまり善悪を知る者となったんですから、一見して蛇の言った通りになったということです。神を疑い、蛇を信じる行為が愚かだと教えられて来ましたけれども、神の言葉にも真実を感じられず、蛇の言葉の方が正しかったような雰囲気になってしまいました。
【神の報復】
しかし、神の命令に従わなかったアダムたちがそのままで済むわけがありません。「中央の木の実を食べるなよ。食べたら死ぬからな」という神の言葉には、もっと恐ろしい独裁者の意図が隠されていたはずだと感じます。神の言葉を次のように言い換えることができるように感じました。すなわち「命令に従えよ。逆らったら殺すぞ」という意味だったと思います。
物語の進み具合を見ていくと判りますように、エデンの園を追い出されたアダムとエバは痩せた土地で苦労して働いて食べ物を得なければならなくなりますし、命の木の実を食べられなくなって、生き続けることができなくなります。
あっさり殺さずに、楽園から追い出して見殺しにするつもりだったのかもしれません。
【アダム(人)への批判】
この物語のアダムは、神の命令に叛いたように伝えられて来ましたけれども、アダムはよく考えて、自分の意思で、積極的、自覚的に叛いたようには思えません。
突然出て来て命令した絶対者にアダムは反論しませんでした。蛇の言葉を聞いて神を疑うようになった女が何を言おうが、絶対者の命令に従うと自分で決めたなら、アダムは黙って従えばよかったのです。しかしアダムは、女の誘惑に乗って、深い考えもなく神の命令に叛いたのです。この結果に対して、まるで罰を与えるかのように振る舞おうとする神に、アダムは逆らうこともせずに、なされるがままにエデンの園から追い出されてしまいました。
アダムは自己意識が弱く、人格的に確立していない人の代表のようです。アダムは他者の言葉に振り回されているだけで、積極的に神に逆らったのではないでしょう。アダムのこのような不甲斐無い(ふがいない・いくじのない)生き様をこの物語は批判していると思います。
【絶対者に立ち向かう】
みなさん思い出しませんか。出エジプト記で、エジプトの圧政から逃れた民が、荒野で水や食料に困った時に、エジプトで奴隷だった時の方がよかった。奴隷の時には少なくとも水も食料も寝床もあったのに、ここには何もない、と不満を述べたイスラエルの民をぼくは思い出しました。アダムとエバの状況は、まさに絶対的な王ファラオに逆らって王の楽園を出た民のようです。このことから、たとえエデンの園を追い出されたアダムやエバのようになっても、絶対王政のエジプトで、衣食住が保障された奴隷としてきるよりも、自分の生き方を自分で決めることを選択したイスラエルの先祖たちが思い浮かびます。また、王政を採用するまでのイスラエル民族は、自己意識をしっかり持っていたはずです。そういう背景を持つ民族の下で書かれたこの物語は、人を代表するアダムに「しっかりせよと」激励しているのだと思います。同時にこの物語は、十二部族をまとめるために、神による統治という概念を政治に取り入れた王政が作り上げた宗教に対する批判であるように思います。
人が額(ひたい)に汗して食物を得えなきゃならないようになったのは、絶対者である神の命令に逆らって楽園を追い出されたからじゃない。人が死ぬのは、神が人間を命の木から遠ざけたからじゃない。それらは当たり前のことで、神の報復や罰ではない。そこに神話の神のような絶対者を勝手に登場させる宗教を許してはならないということです。
人はエデンの園から追い出されたんじゃなくて、自分で出て行って、自分の生きる場所を自分で探したのです。自分の仕事を自分で決めていいのです。自分で決めたことを実現できるように働けばいいのです。それを勝手に阻止する絶対者は宗教の中にいるだけです。
アダムとエバの、神への反乱が悪いかのように教えられてきましたけれども、そもそも絶対主権を持った神など認めません。だから、あなたが自分の信念のために働くあなたを邪魔する絶対者なんかをあなたも認めなくていいのです。
【ぼくたちは】
イエスは、伝統的なユダヤの掟や宗教を捨て去ることによって、心を縛る事柄から解放された人ですから、人を束縛するために作られた聖書物語にも束縛されていませんでした。福音書に登場するイエスは創造物語についてほとんど何も語っていないことから判ります。
アダムは周りの言葉に翻弄(ほんろう)されましたけれども、ぼくたちは自分を確立しましょう。そのためには、神話の神に「反発するも良し」なのです。絶対者を名乗る者と、そんな神を持ち出す宗教に、もっと積極的に反発しましょう。