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「大切なのは愛の関係」20230423
「大切なのは愛の関係」20230423
聖書 ルカ 十三章 一節~五節
【悪い宗教家が神を作った】
世界中で災いが続いていますのに、既存の宗教は、間違わない正しい神様やそれに代わる者がいるという虚構(きょこう・事実でないことを事実らしく作り上げたもの)を教えています。正義の神様がいるのに災害が起こるなんて納得できません。多くの弱い人々は正義を求めています。そんな人々に神を受け入れさせるために、どんな時にも正しい神様を宗教家は作り出したのでしょう。神様を悪者にしないために、災害が起こった理由を説明する物語を宗教家は作ったのだと思います。しかし、正しい神様なんていません。正義を大切にする神様なんて人間が作った虚構にすぎません。
むかしよく歌っていた子供讃美歌の一節に「悪いことは小さくてもお嫌いなさる神様」というのがあります。正義の神様は悪いことは小さくてもお嫌いなのだから、みんな悪いことをしないで良い子に育ちましょうということです。良い歌だと思う人が多いでしょう。しかし、こんなことを小さい時から教えられた人は、自分は神様から嫌われていると考えるようになるんじゃないでしょうか。なぜならば、どんなに頑張っても、小さな悪いことさえしない良い人なんかにはなれないと多くの人は思っているからです。親や大人に叱られないで育った人はいません。誰もが自分には悪い部分があると思っているはずです。そういう人間の弱い部分や隠しておきたい部分を罪だなんて教えられますと、自分は罪人だと認識してしまうと思います。さらに、罪人は正義の神様から裁かれるなどと教えられるのですから、多くの人は不安になるはずです。人間というものは、正義の神様から裁かれるべき弱さや罪を持っていると教え、人の弱さに付け込んでくるのが宗教です。
弱い人が救われる方法を教えてあげると言いながら、その弱さに付け込んで、人を自分の思い通りに操ろうとするのが宗教を教えている人々です。そんな悪いことをする人はいないだろうと普通の優しい人は考えるでしょう。しかし、思い通りの生活をするために、弱い人を利用する悪い人は歴史の中にも現在もたくさん実在しています。
【正義の神などいない】
神は正義であるから、正義の神に逆らうことはできないと教えるために、神は常に正義である、と昔から教えられていますけれども、神が正義である証拠なんてものは何もありません。
キリスト教では父なる神と表現しますが旧約聖書の最初に登場する世界を創造したユダヤ教の神と同じです。この神は世界の創造者であると教えられています。創造主であれば、すべての秩序の源ということになりますから、神こそが正義であることになります。神がそのような存在であれば、誰も神に逆らう権利はないことになります。だから、神には無条件で従わなければならないと宗教は教えてきました。命令に従う者を大切に扱うのが神なのです。
そんなこと言われても、人間は神の命令に完璧に従うことなどできません。そんな人間が過ちを犯した時には、罪を認めて悔い改めれば赦してもらえることになっております。神はそれほど人を愛しているのだそうです。しかし赦してもらうためには犠牲や供物が必要だということになっております。この辺りで利権を得る人がいるはずですから、この論理は怪しいです。。犠牲を要求するのは赦しではないとぼくは思いますが、とにかく、逆らうことを許さない神は赦してほしい者には犠牲を要求します。そんな独善的な神の愛など信じられませんが、とにかく昔からの宗教はそう教えてきました。
そのような神を教えられて多くの人は育ちました。ですから、何か不都合なことや災いが起こってもそれは神が悪いのではなく、間違いを犯した人間のせいだということにされたのです。
【納得できないことが多い】
しかし、どう考えても納得できないことが世の中にいっぱいおこります。正しい人だと思われていたイエスが苦しみを受けて殺されたことも納得できません。
偉い預言者たちやイエスが殺されたのは神が間違ったからだ、なんて言えませんから、ローマ帝国などの悪い人間が、イエスを殺したことにしたのでしょう。けれども、神がそんな人間の過ちを見過ごしにするのはおかしいと考える人も現れたはずです。これを補うために、救いの計画という虚構が考え出されたのだと思います。
【救いの計画は作られた】
間違い多き人間を救うことを望んだ愛の神は、人間の罪を贖う(あがなう・つぐなう)こととされたのだそうです。神は正しいから人類を救うために、神の子イエスが人類に代わって生贄(いけにえ)になる救いの道を作ったのだそうです。
人々を救うために選ばれし者を殺されたままにしておけないから、メシアの復活が考え出されたのです。
神のご計画で正しい人が死ななければならないなどというのは、どう考えても理不尽です。
現実の社会では、多くの罪を犯しても罰せられない人がいますし、罰せられる必要のない人が罰せられることがあります。どれも理不尽です。無理やり理由を作り出しても神が正しいという考え方を守ろうとする人がいますけれども、無謬(むびゅう・間違いのない)の神など初めからいないのです。あってはならないことを止めたり、正当な理由なく殺された人を生き返らせる神などいません。
病気になる人がいます。殺される人がいます。騙される人もいます。この社会の現実こそ、無謬の神がいない証拠です。神に不従順な罪人が災いに遭うなどという教えは、他人を自分の想い通りに操縦しようとたくらんだ人間が考えだした論理なのです。
従順な人を大切にするのは、自分の思い通りに他人を動かしたいこの世の支配者です。神のイメージがこの世の支配者たちのイメージと重なっている理由は、神のイメージを作ったのがこの世の支配者たちであることを示す証拠です。世界中に理不尽なことがこれほど起こるのは、全てを統制することができる正義の神などいない証拠です。神とは人間の支配者を天に投影した虚像に他なりません。だから正義の神に祈っても何も変わらないのです。戦争も終わらず、罪のない人が殺され続けているのです。人を騙す人が弱い人から金を奪い、悪い人でなくても病気になるのです。だから正義の神などいません。
【ぼくたちは】
災いが神の裁きであるという教えをイエスは否定しました。不従順な人を苦しめる神は正義じゃありません。祈りの対象になるような正義の神などいないからイエスは「父よ」と祈ったのです。父は、愛の関係を示す言葉です。正義ではなくて愛と呼べる関係こそが大切なのです。
愛は対象物ではなくて、関係状態です。関係の中で人は生かされています。関係の中で願い、関係の中で感謝する。これが祈りです。関係の中で思い出のイエスが復活するように、人間にとって最も大切なのは愛の関係です。
正義の神という虚構に向かって祈るのをやめて、人間同士の関係を愛と呼べる関係にするために努力する他ないと思います。