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「人が書いた聖書」20211107

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「人が書いた聖書」20211104

聖書 マルコによる福音十五章三十四節

   ルカによる福音書二十三章四十六節

 

 日本クリスチャンは人口の一パーセント未満であることから判ります通り、キリスト教を自らの宗教として受け入れている人はほとんどいません。八百万(やおよろず)の神々がおられる日本では、排他的な唯一神を祀る信心が嫌われるからでしょう。そんな日本でももうすぐクリスマス商戦がはじまります。それは欧米的な祭りの雰囲気だけ、宗教と縁を切った上で利用れてるだけです。誕生祭の中心であるはずのイエスは生まれた時のまま、家畜小屋の片隅にでも置かれているのでしょう

 

 祭りというものは、狩りや農耕に関係しています。食物と安全な生活を願う気持ちは世界共通です災いも幸いも神の意志次第であると多くの人は考えていからでしょう、生活に関係深い太陽が世界中で祀られています。

 クリスマスが十二月二十五日であることも太陽を拝むことと関係があります。考えてみてください。この日は冬至(とうじ、最も陽射しが短い日)に近い日です。これから太陽の力がどんどん強くなっていく時なのです。

 元来この日に行われていた太陽神を祀る祭りをキリスト教が乗っ取ったようなのです。背後に大きな力が働いていたからそのような乱暴なことができたのでしょう

 

【力関係の変化】

 クリスマスの祭りの起源は四世紀後半だそうです。そのころキリスト教会には何が起こっていたかを見ましょう。三百九十二年キリストローマ帝国の国教(国全体の宗教)に定められています。その頃には教会のがかなり大きくなっていことが判ります。政治と宗教が関連を深めた頃に、クリスマスの祭り誕生しているのです。

 

【ローマ帝国とキリスト教会】

 勢力が弱まってきたローマ帝国は、政治基盤を立て直すために、その頃までに勢力を増しつつあったキリスト教を利用しようとしたようです。一方、キリスト教会は、迫害者であったローマ帝国を味方につけることができることを喜んだでしょう。利害関係が一致したのです。

 このような力の後ろ盾があったから、キリスト教はミトラ教の祭りを乗っ取ることができたのでしょう。しかし、政治と宗教の結びつきは弊害ももたらしました。

 一時的に勢力を盛り返したように思われたローマ帝国はこのことによって帝国分裂の種を持ち込んだと言えそうです。と言うのも、ローマ帝国は単一民族国家ではありません。多くの地域を飲み込みながら大きくなった帝国です。それぞれの地方には民族ごとに土着の宗教があったはずです。ですから、帝国内にはいろいろな宗教があったのです。それを皇帝という政治権力が、一神教であるキリスト教に統一したのですから、大きな反発を招いたと考えるのが道理です。そうだとすれば、権力を集中して強大化しようとしたことが、かえって帝国の分裂を招いたことになります。土着の信仰心や精神を権力で抑えるなんてことはできないのです。

 

【正典の編纂】

 一方、キリスト教が、ローマ帝国の国教になってから僅か五年後(三九七年)に、キリスト教会が「聖書の正典」を公表しています。現在もキリスト教が最も大切にしている正典聖書は地中海のカルタゴという都市に、各地の教会(西方教会)から代表者を集め教会会議の席上で決定されたです。背景にローマ帝国の思惑(おもわく・意図)あったのです。このようにして教会は権威を重んじる権威主義に陥ったのです。

 

【聖書の体裁(ていさい)

 「聖書は神の言葉である」と教える教会が多いですけれども、冷静に見ればわかるように、人間が書いた物です。しかも、今は一冊にまとめられておりますけれども、一冊本じゃありません。歴史文書や、詩集、格言集、福音書、教会宛の手紙など、千年以上の時間の中で、違う状況、違う言葉、違う目的で書かれた新約旧約合わせて一応六十六の雑多な文書一冊の体裁を採らせているだけです。ですから、当然のことですが、この聖書には、たくさんの異なる意見かれております。このように一冊に綴じられた本として持ち歩けるようになったのは、十五世紀に印刷技術が発達したからです。

 

権威の相互依存

 権威主義の恐ろしいことは、教会によって正典とされた聖書が権威になって、教会を判断する基準となったということです。正典というのはCANON(カノン)と言いまして、尺度、定規、規範という意味です。政治権力に後押しされた教会会議が作った正典(規範カノン)に沿って教会を作り上げていく。このように教会と正典聖書が相互に権威つけの作業を繰り返しながら権威増強していったのです。こうして権威主義的な教会と聖書が誕生したのです。

 

【聖書は神の言葉じゃない】

 今だに、正典聖書の権威はキリスト教徒の中では絶大です。キリスト教徒の中ではと言いましたように、信者でない人にとっては聖書はけっして神の言葉じゃありません。

 冷静に考えれば、さまざまな時代にさまざまな人によって書かれた文書の集合体でしかありません。もちろん文化的にすぐれたものであるでしょう。しかし、神の言葉じゃなくて、人間が書いた物なのです。

 

【聖書の主張はバラバラ】

 今日は二つの福音書からイエスの最後の言葉「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」(マルコ福音書十五章三十四節)と「父よわたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ福音書二十三章四十六節)読んでもらいました。この二つのどこが共通しているでしょうか。まったく異なったイエスが表現されているとしかぼくには思えません。著者たちのイエス理解も伝えたいことも全く異なっています。これらを一つの正典の中にある同じ目的を持った書物だと言い切るのは、権威を傘に着た教会の横暴です。

 

【ぼくたちは】

 「聖書が示す真理は一つだ」という妄想が多くの教会で流行っていますが、現実にそんなことはあり得ません。いつまで権威の横暴と弾圧に屈しているつもりなのでしょう。そんな生き方をイエスはあなたに望んでいません。

 権力的な律法の抑圧から、イエスはあなたを解放なさいました。解放されたはずのあなたが教会正典聖書の権威や横暴によって抑圧されていて喜ぶはずありません。イエスの福音は、あなたを今の抑圧から解放します。

 正典だから従わなきゃならないのではありません。素直に読めば、大切なこともそれほどでないことも判るはずです。イエスは簡単なことだけ教えました。イエスは何も要求していません。

 「ねばならない」などと言って押し付けません。そのままのあなたを大切にすればいいのだと教えて、よしよしって言いながら優しくトントンってしてくださるだけです。

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