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「目指すはイエスの目標」20220717
「目指すはイエスの目標」20220717
聖書 ヨハネによる福音書八章一節〜十一節
先週の執事会ではとても大切なことを話し合いました。まずは八月の休みの予定です。もう一つ大切な話題は、現在のキリスト教界全体の状況を踏まえてのこととして、「これからの西野教会」という議題でした。正確に言えばこの教会「西野バプテスト教会」の今後をどうするかという意味です。
【公道と個別の教会】
個別の各個教会に対して、公道の教会というキリスト教の概念があります。公道のというのは正しいとか普遍的な、どこに行っても同じというような意味があります。カトリック教会というのはそういう概念を自己主張している組織です。あちこちに点在する教会のどこに行っても同じ礼拝ができる、というのがカトリック教会の売りですが、実際は異なります。同じなどということはあり得ません。
プロテスタントでも公道の教会という信条を教えますけれども、個々の教会が異なることを強調しています。具体的な例を挙げれば、西野バプテスト教会と札幌バプテスト教会は似て非なるものです。決して同じ一つの教会ではありません。ぼくたちの教会の出発点が、バプテスト主義によって西野に設立された教会であることは事実です。しかし同じではありません。
【この教会も変化している】
この教会堂が建てられてから五十年を過ぎました。設立時の構成員は誰もいません。ですから、西野バプテスト教会も、昔と今では全く異なっているんです。
人のからだも五十年前と今では全然違います。昔のぼくを知っている人が今のぼくを見ても気づかないほど変わっております。細胞のほとんどが入れ替わっておりますように、教会も外観と共に構成員も考え方も替わっているのです。
教会堂という建築物だけを取り上げましても、修理や増設を繰り返しておりますので、昔のまま残っているのは、一部だけです。
さらにまた、現在いる構成員も内なる変化を経験しております。
特に、二〇〇五年四月に牧師になってからのぼく自身の考え方も変わりましたし、教会の構成員の信仰の捉え方も変わりました。ぼくらは日々バージョン・アップしておるのでございます。ですから、二〇〇五年の西野バプテスト教会と二〇二二年の西野バプテスト教会は同じではないのです。
このように具体的な変化を見ただけで、教会は一つであるなどと言えないことが判るはずです。公道の教会(カトリックな教会)があるなどというのは希望的な概念でしかないのです。
【教会という概念の行き詰まり】
このようなことを背景に持っていますから、「これからの西野バプテスト教会」という議題を数年間に渡って話し合っているのです。考えさせられる課題が山ほどあることは認識できましたが解決方法までは行きつきません。しかもこれらの課題はぼくたちだけのものではないのです。
ここ数年で顕(あらわ)になってきたのは、公道の教会の信条も、個別教会の信条も行き詰まっているという事実です。
四世紀ごろの教会が集まって会議で決定した教会の信条を基にして教会は組織を拡大発展させてきましたが、今や頭打ち状態になっていると思います。この際、組織の発展を念頭に置いた福音宣教という考えを捨てて、イエスがなさった福音宣教を教えなければならないのだと思います。
このような意見を言うぼくに対して、そんなことばかり言っていると教会が成り立たないぞ、と批判した牧師もいます。その通りです。組織としての教会は成り立たないでしょう。しかしそれが悪いことでしょうか。そうは思いません。なぜなら、教会組織を拡大することがイエスの目標であったとは思えないからです。
【教会とイエスの目標は違う】
元来教会はイエスによって設立させられたものであると「教えられ」てきましたけれども、そうではないでしょう。教会はイエスが殺害された後にできたものです。十二弟子たちやイエスの弟ヤコブが中心になって作ったものだとすれば、彼らとイエスの間に断絶があるのではないでしょうか。
イエスが伝えた福音と、教会が伝えた福音の言葉に断絶があるとすれば、イエスがなさろうとしたことと、教会活動には断絶があると考えるほうが自然であると思います。
教会はキリストを頭とした組織作りとその拡大を目標にしていますが、少なくともマルコのイエスはそんな目標を立てていなかったと思えます。教会ははっきり言ってイエスが目指した組織ではありません。
イエスは罪に囚われていた女たちを解放(マルコ五章二十五節〜三十四節)(ヨハネ八章一節〜十一節)しました。これらに登場する女たちは、社会組織や宗教組織上で罪とされていたのであって、絶対的な罪を持つ女たちではありません。そもそも絶対的な罪などありえないのです。
当時のイエスが目標としたことは、ユダヤ教という宗教組織に捉えられている人を、解放することであったと思います。
もしも、現代にイエスが登場したとすれば、ユダヤ教やイスラム教やヒンズー教や仏教、さらにはキリスト教を含むあらゆる宗教組織から囚われている人を解放することを目標にしなければならなかったでしょう。忙しいことです。
【現実問題から救い出す】
不運としか言い表しようのない事態に見舞われる人がいるのは事実です。そのような状態から逃げ出したいと思うのは誰しも同じです。
そんな人間の思いに付け込んでくる悪徳宗教家は多いのです。安倍晋三元首相襲撃殺害事件を起こした犯人の母親に恐れの信仰心を植え付けた宗教組織も、程度の差こそあっても他の宗教も、独りよがりの道を教えているという点では同ように責められるべき過ちを犯していると思います。そういう悪人から逃れる道をイエスは伝えたのだろうと思います。それが真実の情報を伝えるイエスの福音宣教であったのだとぼくは考えるようになりました。
悪人とは悪徳宗教者、悪徳商人、悪徳教師、悪徳業者などです。どれも、人の心を不安に陥(おとしい)れ、偽の解決策を与える者たちです。ありとあらゆるものに悪徳が蔓延(はびこ)っているのです。人を操ろうとするそれらの悪徳の力から人間を解放することがイエスの目標であったとぼくは考えております。
【ぼくたちは】
イエスのそのような意志を継ぐのであれば、教会は自らが作った信条を捨てて、新たにイエス自身が目標としたことのために働けるようにスイッチ転換するべきです。たとえそれが今まで目指していた組織の拡大に繋がらなくても、より多くの人々を、人間が本来持っていた自分の生き方ができるように導くべきだと思います。
既存の組織の圧力に負けることなく、福音書の物語に記録されているイエスのように、悪しき因習から庶民を解放する本当の情報を堂々と語る者になりましょう。