説教の題名を押して下さい
「マリアは事件に巻き込まれた」2020.11.29
「マリアは事件に巻き込まれた」2020.11.29
聖書 ルカ 一章二十六節〜三十八節
健康ということばをよく使いますけれども、健康であるとは、どういうことなんでしょう。健康の定義なんて知りませんよね。広辞苑を見ると、身体に悪いところがなく心身がすこやかなこと。達者・丈夫・壮健・病気の有無に関する体の状態、などと書かれていました。
そうだとすると、ぼくには、悪いところなんていっぱいあるので、とてもじゃないが健康とは呼べないわけです。
「大丈夫ですか」とよく訊かれます。「いや、あかんわ」と応えることが多いんですけれども、本当なんですね。健康そうに見せていますけれども実は不健康なんでしょうね。
今年になってから、ほとんどの話題は新型と呼ばれる風邪のことばかりです。世界中の関心が集まっています。
日本バプテスト連盟や北海道バプテスト連合でも、集会することをあきらめて文書による総会をすることになっています。集まることを簡単にあきらめてしまったことに不信を感じます。平和な時代だからこそ戦争反対なんて言っていますけれども、不穏になっても戦争反対なんて、言い続けられるんでしょうか。たぶん無理だろうなあと感じています。
現状の社会でどのように生活していけばいいのか、判らない状態であることは確かなんですが、その理由は、確かな情報がないからです。情報が隠されているからです。専門家が、公平な意見を述べているとは思えません。何よりも、公の場で意見の異なる専門家が議論するような場面は設定されていません。かたよった立場の専門家たちだけがマスメディアに登場して世論を誘導していることは明らかです。
何度も言ってきたように、現在社会の現象も金の流れを考えると真実が見えてくるように思います。想像すると判ると思うんですが、たとえば、新しいワクチンや薬を世界中に売り込むことやその恩恵にあずかる人たちがいるからでしょう。
とにかく、世論は先の見えない苦悩の中に置かれてしまった、というのが現状です。
いろんなことが起こって、社会全体がどうなろうとも、そんなことに関係なく、ひとりびとりが本当に心配しているのは、自分がちゃんと生活して行けるのかどうか、ということです。すなわち家があって食べ物があって、仕事をしてなんとか生活を続けたい、ということです。その生活の根底を揺(ゆ)るがす状況になっているから問題なんですが、どちらにしても庶民の願いは今日明日を生活することです。
このような不安定な現状で、救いの言葉を発信することができればキリスト教会が存在していることにも意義があります。しかし、力の強い者の言葉に右へ倣(なら)えをしているようでは、存在意義が問われます。
ここで言う救いの言葉とは、キリスト教が教義として教えている「福音の言葉」じゃありません。そうではなくて、偏りのない情報、真実に近い情報、議論し合える情報です。政府や自治体の発表に流されているようでは、良い情報(福音)を伝えられないでしょう。
こんな時には、キリスト教会の団体が、さまざまな立場の感染症の専門家などを招集して、さまざまな情報を集めて、現社会を守り育てるには何が必要なのか、ということを検証する、などの行動をとるべきだと思います。キリスト教会を代表する団体として連盟なりが、社会全体に影響を及ぼす働きをする必要がある、と考えます。しかし今はまったくそうでないことが残念です。
多くの教会はズームで礼拝をするようになりましたとか、わたしたちも三密を避けて、文書で総会しましょうとか言っているようでは、話になりません。こんなことをしているから、連盟から教会の心が離れていくんです。各個教会に届くメッセージがないんです。地域の教会も、現代を救うメッセージを発信できていないから、庶民の人心を集めることができないんです。そう思います。
そもそも、政府や自治体の発表を聞いた時に、「おかしいぞ」と思う感性が無いのであれば何もできませんけどね。
【マリアは妊娠した】
現代のぼくたちとおなじように、いやそれ以上に、マリアは、日常生活を突然奪われた人です。
マリアを襲った事件は、マリアの前途を真っ暗にしました。「どうしたらいいか判らない」状況にマリアは突然入れられてしまったんです。理由は伏せられたままなので判りませんが、マリアは妊娠したことを知りました。いろいろ予定していたことも、ぜんぶすっ飛んでしまった今のぼくらと同じ状態です。もちろんもっと悲惨です。
マリアには、すでにヨセフという婚約者がいたんですが、妊娠したのは婚約者ヨセフの子じゃなかったんです。こんなことが明るみに出たら、社会から抹殺されます。追い出されるだけで済んだとしても、食っていけません。
マリアが妊娠した理由は何も明かされていないんですが、しかしなぜこんなことにならなければならないのか、と事件を恨んでいた、というのが、マリアの本心だったんじゃないでしょうか。
マリアのお腹にいるのがヨセフの子供でないということは、「誰の子かわからない」ということです。「誰が親なのか判らない子をマリアが妊娠している」という現実だけが先行していたんです。何があったのか判りませんが、マリアにそんな事件が起こったんです。
今でもそうですけれども、当時はこんなことは許されませんでした。マリアは誰に相談することもできずに悩んだはずです。
【天使のお告げ】
ルカ福音書には、天使ガブリエルが現れて「おめでとう、君は妊娠して男の子を産みます」と伝えたことになっています。理由を伝えないままで、マリアにただ告知しただけなんです。
二千年も前のことです。未婚の女性であったマリアに、こんなショッキングなことはありません。期待もしていないし何も知らない未婚の女性に向かって言える言葉じゃありません。ぜんぜん綺麗事じゃありません。天使と言えども、セクハラで訴えられても文句は言えません。
天使のお告げを聞いたマリアは、すぐに「判りました」って応えたように書かれていますが、そんなわけありません。書かれているのは数行ですが、それからずっとマリアは悩み続けることになります。子どもをほしがっている人なら喜びますが、そうでなかったら、悩むだけです。天使のお告げだったとしても、うろたえるしかないでしょう。簡単に受け入れられることじゃありません。
天使はただマリアだけに現れた、ということですから、周りの人には判らないということです。聖書の言葉通りに受け取ってくれる人なんか誰もいません。マリアの状況を受け入れてくれる人なんか誰もいないんです。「神様に選ばれて良かったね」なんて言ってくれる人はいません。しかも、天使のお告げなんてことは、ないんです。
【苦悩の末に】
天使のお告げがあったとしても、受け入れ難い内容です。聞いたとしても、マリアだけなんですから、大変なことなんです。
とは言え、どんなに苦しんでもしょうがないんです。今のような医療技術もありません。産むしかなかったんです。受け入れざるを得なかったマリアは、長い間、苦悩し続けただけです。
このように、イエスは期待されていなかった命です。しかし、誰にも、理解されない中で生まれた新しい命が、多くの人に希望を与える存在となったということですから、思いも寄らない仕方で福音が現実になった、ということです。
マリア以外の誰も、本当の理由を知りません。マリアは明かさなかったんです。どうせみんなを納得させることなどできません。そんなもんです。それでいいじゃありませんか。予定通りに進むことなんかありません。予言通りに事が成ったなんて話があったら、それこそ疑わしい奇跡です。
事件に遭ったマリアを、だれも受け入れてくれなかったはずです。周りの人からは、親の判らない子を産むことにしか見えないんです。そう思われて、あたりまえです。だからマリアは、苦悩しつつ、現実を受け入れざるを得なかったんです。
【神話を書いたルカ】
それほど事件性の高い物語を、誰にも判らないことを、美しい御伽噺(おとぎばなし)のような神話にしたのがルカです。ルカの神話を聞いてそのまま受け取った人々が、メルヘンチックなお祭りを作りました。しかし、そんなことでは現実のマリアの苦悩が見えてきません。マリアの苦悩が神話の後ろに隠されてしまうんです。マリアの苦悩を隠したら、マリアのように苦しんでいる人の救いにつながりません。福音になりません。
【僕たちは】
今日も知らないところで、イエスのような赤ちゃんが生まれているでしょう。見捨てられた母親から、だれも期待していない子どもが産まれているでしょう。
マリアのように、せめて天使が、見捨てられたような母親にお告げをしてくれたらいいのかもしれませんが、そんな神話のような事は、現実にはありません。
ぼくたちも、苦悩のまっただ中で、何らかの光が見えるための良い情報(福音)を必要としています。苦悩の現実にどう対処していけばよいのか。具体的な救いに至る確かな情報を必要としています。確かな情報を提示すること、それが福音を伝えることです。
【次週予告】
マリアは具体的に救われました。イエスを産んで育てたんですから確かです。
マリアに、具体的な救いの道を示す福音を伝えたのは、誰でしょう。天使じゃありません。天使はマリアを救うどころか、苦悩を与えただけです。マリアを救い得たのは天使じゃなくて人でした。
いいところまで来ましたが、時間がなくなりました。この説教は続きます。次週の予告は、マリアを救った人について話します。