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「差別パスポート」20211003
「差別パスポート」20211003
聖書 ローマ書 四章 一節〜十二節
我が教会には、「あなたは罪人です」というキリスト教の常套句に猛烈に反発する人がいます。確かに悪い人ではありません。しかしキリスト教というテリトリー(縄張り)においては間違いなく「罪人」と断定されます。「わたしは悪いことなどしていません」と、いくら自己主張しても、律法に照らせば、あなたは罪人であると確実に判断されます。お判りのように「律法に照らし合わせれば」という条件に問いのカギがあります。すなわち、絶対的な罪を問うているのではなくて、判断する法の中身によって、あなたが罪人になるかならないかが決められるということです。
旧約聖書で法といえばユダヤ教の律法です。「神」という名を深い考えもなく無作法に口に出しちゃいけないというモーセの十戒の言葉に影響されて「アドナイ(主)」と言い換えるようになっていた絶対者によって、ユダヤ教の律法はイスラエルの民に与えられたことになっておりますから、イスラエル人はユダヤ律法によって裁かれることは理解できます。
しかし、法律の勢力が及ぶ範囲は国の支配領域だけです。たとえば、日本に居る限り日本人が中華人民共和国の法律で裁かれることがないように、ぼくらがユダヤ教の律法によって裁かれる必然はありません。しかし、ユダヤ教のアドナイは世界を創造した絶対者だと主張することによって、イスラエル以外の全ての民族もユダヤの律法によって裁かれるべきだと主張しているのです。律法をアドナイから直接に受け取ったイスラエル民族が、全ての民族を自分たちの律法で裁くと宣言しているだけです。まるで中国の主張とかわりません。
モーセの十戒程度であれば普遍的な戒律にしてもいいのでありますが、細部にわたる決め事を他の国々に要求することはどだい無理ですから周りからの反発を招くのは必然です。このあたりの限界を自覚せずに、自分たちの律法こそが普遍的なものだと主張するから宗教間の対立を生むのです。
【イエスとパウロの悟り】
ぼくらの友なるイエスも、イエスより二十年ほど後に登場したパウロもイスラエル民族で生粋(きっすい)のユダヤ教徒でした。
イエスは社会から隔絶されたヨハネの集団の中に入って荒野で修行しましたし、パウロはユダヤ教の異端のように出没したキリスト教徒を迫害することを生きがいにしたほどの熱心なユダヤ教徒でした。二人とも律法とユダヤ教の戒律に縛られて生活していたことは確実です。
若かりし頃のイエスはユダヤ教の律法の要求を満たす生活をしようとしたのですが、そんなことは到底できないことを悟り、律法を守らなければならないというユダヤ教の要求が、とうていアドナイから出たものではないことに気づいたのでしょう。
エロヒームとかヤハヴェなどという名を使っちゃいけないというからアドナイ(主)と呼ぶことにしている神にどのように祈ったらいいかと弟子たちに問われた時に、イエスは「アバ」つまり「パパ」「とうちゃん」という呼びかけで始める祈りを教えたことは有名です。なぜかほとんどのクリスチャンが真似していません。
この一事だけでも、律法に照らし合わせれば、イエスはまごうことなき罪人です。ユダヤ教の範疇においては、アドナイを冒涜しているという判断を受けることを承知の上で、イエスは自ら進んで呪われし者になったのです。イエスは律法主義社会を拒否したのです。
律法主義を拒否したイエスをメシアだと信じている人々がイスラエル民族の中にいることを知った若きパウロは、キリスト教徒打倒のために立ち上がりました。それは律法の教えを忠実に守る行為の一環であったと考えられます。そのような行動に出たのは、彼自身が律法の文字に違反しない生活をすることに限界を感じていたからであろうとぼくは考えております。自ら律法主義を追求しても、違反者に罰則を加えても、いずれにせよ律法の要求を満足させることができないという限界に達した時に、律法主義を乗り越えたイエスの福音にパウロは気がついたのでしょう。
律法主義の主張をアドナイが要求していないことをパウロは悟ったのだと思います。
「安息日に働いてはいけない」という律法主義の要求を、アドナイの要求と見なさなかったイエスと同様に、「割礼を受けなければならない」という律法主義の要求を、アドナイの要求ではないとパウロは悟ったのでしょう。
律法に照らしてみれば罪人でしかなかったパウロは、その姿のままで義とされていたことをイエスの福音に触れて悟ったのでしょう。
「だれも律法を実行することによって神の前で義とされない。律法によっては罪の自覚しか生じない」(ローマ三章二十節)と主張したパウロは、「アブラハムは割礼を受ける前に義とされた」という旧約聖書の物語を持ち出して、律法主義者が主張する割礼が、義とされるための条件ではないと主張しました。
律法主義に陥っていた過去の自分の生き方が、現在の自分が義とされていることに何の関係もなかったことを悟ったパウロは、「不敬虔(ふけいけん)な者を義としてくださるお方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められる」(ローマ四章五節)と言い切っています。
「義とされる」ということは「罪人ではない」ということです。律法による判定をせず、自分を罪人と定めなかったお方がいることをパウロは知りました。どんな状態かに関わらず、あなたは罪人ではないとして大切に扱ってくれるお方がいるというのが、パウロの主張であり、イエスに重なるものです。律法主義者のように律法を守るか守れないかという違いによって人は差別されないことをイエスもパウロも主張したのだと思います。
【ぼくたちは】
さて、全面的ではないにせよ緊急事態宣言は解除されました。しかしお注射パスポートのことをぼくは気にかけております。パスポート(旅券)は、ポートすなわち港や空港を通過するために必要な通行証です。
感染予防のお注射パスポートの提示がなければ入場できないとか、パスポートの提示によって割引を受けることができるとなっておりますけれども、この場合、律法遵守かどうか、割礼を受けているかどうかを問う時のように、民衆を分離するためにパスポートが用いられていることが問題です。パスポート不携帯の人には乗り越えられない線を引くというのは、分離と差別の道具になっています。日本バプテスト連盟は、差別撤廃運動に熱心ですが、この差別に抗議しないのはなぜでしょう。疑問です。
パスポートとは、本来、分離や差別を乗り越えるために必要なものであるはずです。しかし、お注射パスポートは、分断を作るためのパスポートです。
こんな人権差別パスポートの発給を喜んで受け、差別する側に喜んで立つクリスチャンがいるとすれば、イエスやパウロが伝えた福音をどう解釈しているのか訊きたいものです。
人を分断し差別するために作られた制度を拒否する人は「今も十字架につけられたままなるイエス」のように迫害され続けなければならないのでしょうね。