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「スクープ」20210829
「スクープ」20210829
聖書 ルカによる福音書七章三十六節〜五十節
ZOOMを使っての北海道バプテスト連合牧師セミナーに参加しました。
西南学院大学神学部の須藤伊知郎教授の講義を受けて質疑応答する四時間程度のプログラムでした。昔は二泊三日で行っていたものですから、それに比べると物足りなかったです。
マタイ、マルコ、ルカの福音書を比較しながら学びました。マタイとルカがマルコを手元に置いて福音書を書いたのだろうということは今まで言ってきたのでおわかりでしょう。その他にマタイとルカが使ったけれども、マルコが知らなかった言葉集や、マタイとルカがそれぞれ独自に使った資料もあります。マタイとルカのそれぞれの特殊資料を「スクープ」みたいなものだと表現なさいました。これは判りやすい表現だと思いましたので、これからそのように言おうと思いまして、早速使わせていただきますと、今日の物語は、ルカのスクープです。
【罪の女】
今日の話には罪の女とよばれている人が登場します。罪深い女と翻訳されていますが、「深い」とは書かれていません。「罪深い」という表現は聖書翻訳者の誇張でしょう。
いずれにせよ、イエスを食事に招いたファリサイ派の家の主人がこの女を嫌っていることから、女は売春婦だったように思います。
当時も今も、嫌われる職業というものは実在します。公には否定されているけれども、必要不可欠な生業(なりわい)とでもいうものでしょう。
社会構造的には認められていなかったり、卑しい職業として軽蔑されているものがいくつもあります。たとえば、屠殺や汚物の処理や埋葬に関わる仕事、キツい、汚い、危険な仕事は生活に必要であるにもかかわらず、下層階級の仕事だと認識されていたことは今も変わらず人々の感覚として残っているものです。
売春は卑しめられていたにもかかわらず、どの時代にもどこの地方にもあるように、無くせないものとして、暗黙の了解の下で社会構造の影に置かれているのでしょう。
奴隷制度を認めない現代社会でも、不法就労者が世界中にいるように、不法を承知の上で低賃金で働かせている雇い主や、ピンハネ業者も現存しています。建前と本音、見せかけと実態が異なっているのが社会の実態です。
立派そうな格好をしていた人が横領(おうりょう)や収賄(しゅうわい)や詐欺(さぎ)で逮捕されたりするのは、見えない犯罪行為が現実に横行していることを示しています。
見かけは美しい社会にも、影の部分や見たくない裏社会が現存しています。現存しているけれども表面的には無いもののように扱っているのが実態です。
「罪の女」と呼ばれている今日の登場人物も、そんな影社会の一員でした。
【見えない女の登場】
女がイエスに近づいてしまったので、追い出す機会を失った家の主人は、どう対処するかをイエスに任せて、成り行きを見ようとしたんでしょう。無理に引き止めないで、女のなすがままを見ながら楽しんでいたんじゃないでしょうか。
女は、その場の主賓であったイエスに香油を注ぎかけ、涙で足を濡らして髪の毛で拭い取ってから足に口づけして香油を塗ったんだそうです。ぼくたちにも目に余る仕草です。
公には立派な人の家にこの女が入って多くの人の目に触れたのですから、裏社会の人が表に出てしまうわけです。しかも、その日の主賓に対して、目に余る行動をとったもんですから、いやがおうにも目立ってしまいます。しかしイエスは身動きしませんでした。女を振り払うこともせずに、女の為すがままにさせていたイエスに批判が移っていくことが見て取れます。
【批判の矛先を変えたイエス】
女への批判が自分へと移っているのをイエスは感じ取ったはずです。しかしイエスは弁明することなく、女に向かい合いました。そして「あなたの罪は赦された」と女に言いました。
いやいや、その前にイエスは譬え話をなさったはずだと思われたでしょう。しかしこの譬え話に対してぼくは納得しかねております。
「女が大きな愛を示したことによって、多くの罪を赦されたことが判る」という譬え話は「赦されたから愛した」という順番です。そうなると、女は赦された体験を、すでにどこかでしていたことになります。そうだとすれば、この場面全体の流れにふさわしくないと思います。読んで判りにくいのはそのせいでしょう。
そこで四十節から四十七節までを飛ばして読んでみました。すなわち、女の仕草が終わった頃に、「あなたの罪は赦された」とイエスは女に向かって突然言ったのだと考えてみました。すると、中風の男に「あなたの罪は赦された」とイエスが言った出来事と重なっていることが判ります。「あなたの罪は赦された」という爆弾発言によって、女への批判の矛先は、女の罪を赦したイエスへと完全に向きを変えたことが判ります。
「罪まで赦すとはなんというやつなんだ」と思った同席者たちはイエスを非難しました。
【女を見えるようにした】
真正面に女と向き合って「君の罪は赦された」と宣言したイエスは、社会から見えない存在として扱われていた女を見える存在にしたということです。同席者たちが無視していた女を目の前に鮮やかに浮き上がらせたのです。
このようにして、社会から無視されていた女をイエスは人間扱いして社会の一員に受け入れさせました。
【ぼくたちは】
人が生きることは、このように人間関係を持つことです。関係無くして生まれませんし関係無くして生活できません。そうであるにもかかわらず、社会は人々の関係を分断する方向へと進んでいるように思えます。
群れることを好む人という動物が自ら分断の道を選ぶはずありません。ですから、分断する方向へと進まされているのだとぼくは感じます。
利用しやすい程度の大きさまでは許すけれどもそれ以上に群れることを許さないのは、その方が都合がよいと考える人々がいるからです。
四人以上での会食は許さないとか、酒の提供は何時までとか、他府県への移動は差し控えるようにとか、シチュエーションを替えれば、これらはまるで戦時中の統制と同じです。
分断思考が蔓延(はびこ)る中で、イエスはどんな人とも向き合うことを大切になさいました。そして孤独を感じている人に「君はすべて赦されている」「君はそのままで愛されている」と言い切って、安心させました。
世の中に偉人たちはいっぱいいます。しかしイエスは、偉い人でも学者でも専門家でもありません。だから飾らない人間関係を大切にできたんです。イエス自身が人に守られ育てられた人ですから、人との関係を大切にし、孤独な人を放っておけなくて関係を結んだだけです。このような人間の関係回復が救いの真髄です。関係の回復を望んでおられたイエスとの関係をぼくは喜んでいます。あなたも、このような人間関係を喜べますように願っています。連絡してくださればいつでも繋がることができます。連絡をお待ちしています。