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「命じられていません」20220116
「命じられていません」20220116
聖書 マルコ福音書 一章十六節〜二十節
イエスは、自分が経験した真実(事実)を大切にし、出どころが曖昧な人々の言い伝えや伝統の宗教に流されない生き方をなさいました。イエスの生き様を宝物として受け取ったぼくたちは、戻るべき振り出し点をここに置いて、新しい一年を始める、と先週の説教でお伝えしました。
ぼくのこれまでの経験を返り見つつ、この振り出し点に戻ってみますと、昔よりも簡単に大切なことを見定めることができるようになっていることに気づきました。そこで昔の説教を読み直してみました。古い説教も、よくできているんですけれども(笑)余計な言葉や迷いも多く見受けられますので、贅肉を(ぜいにく)を削ぎ落として語ることにします。
【教会との出会いの振り出し】
ぼくと教会との初めての接点は、中学二年生の秋に、小学校の同級生に誘われて行った特別伝道集会です。夜七時からの集会でした。朝だったら行ってません。不運でした。
それ以降は「ナザレ会」という名の少年少女会(かわいい感じでしょ)にほぼ毎週通いました。日曜日の午後三時からの会でした。もちろん朝からだったら行ってません。不運でした。
同級生の何人かは既にバプテスマ(いわゆる洗礼)を受けたクリスチャンとして、日曜日の朝の礼拝にも出席していたので、大きな声で讃美歌を歌えるし、聖書を開くのも早いし、ぼくの知らない教会用語を話すこともできました。「教会のことが良くわかるようになるためには、やっぱり礼拝に出ないとなあ」などと偉そうに言われたのが悔(くや)しくて、ぼくはむりやり日曜日の朝に早起きして礼拝に出るようになったんです。あんなことで張り合わなければよかった、と後悔しております。不運でした。
さらに、イースター(復活祭)にバプテスマ式(いわゆる洗礼式)をするというので、バプテスマ準備クラスで勉強して高校一年の復活祭(イースター)にバプテスマを受けました。奇(く)しくも誕生日(一九六八年、昭和四十三年四月十四日)でしたからぼくは不運であると同時にとても巡り合わせの良い人でもあるのです。
【召命は受けてない】
クリスチャンになった途端に、高校一年生にもかかわらず、CS(チャーチ・スクール、教会学校)の補教師に任命され、二年目には小学三年生を受け持たされ、聖書教育という機関紙に沿って教えるという無謀なことをさせられたために、聖書を教えるのもいいかなあ、と思って、また大阪を離れたくもあったので、二十歳で東京キリスト教短期大学に行きました。入試は問題ありませんでしたが、自分が神から召命(しょうめい)を受けたので献身(けんしん)しますという信仰告白文を提出しなければならなかったのが一番の難関でした。
教会では、伝道の働きのために呼び出されることを「召命(しょうめい)・英語ではコーリング(calling)」と言います。裁判所が出廷を命じる召喚(しょうかん)や支配者が徴兵する時に使う「招集」と同じで、怖い言葉です。一般的には、天(神)から与えられた「天職」という意味でも使われます。
ようするに、イエスが漁師たちに「お声をかけ」て呼び寄せたように、ぼくもイエスから「召命」を受けました、てな文章を書かなきゃならなかった訳です。すべての牧師がこのような文章を書いていますが、イエスのお声を直接聞いた人は誰もいません。勝手な思い込みです。
【イエスは友を誘っただけ】
今日の聖書の箇所に「四人の漁師(シモンとアンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ)を弟子にする」という小見出しがつけられておりますけれども不適切です。なぜなら「わたしの弟子になりなさい」とイエスは命じていないからです。弟子になれという召命じゃないんです。ただ友達を誘い出すように「ついておいで」と言っただけです。誘いに乗って、舟と網を置いて付いて行った漁師なんていいかげんな男たちです。
もっとも、イエス自身も、大工の長男であったにもかかわらず修行僧になったり、学者でもないのに、安息日に会堂に入って教えた(マルコ一章二十一節)のですから、奇想天外です。
身内の人たちがイエスを取り押さえに来た(マルコ三章二十一節)ほどですから、かなり狂っていると思われていました。
その後も、イエスはいろんな人々に声をかけていますが、召命して弟子にしたんじゃなくて仲間を増やしただけです。何処に行って、何処で食事して、何処に泊まるかまで、生徒の世話をする先生のように、イエスが彼らを世話しました。「最後の晩餐」の会場を予約し、昼間に水瓶(みずがめ)を頭に載せて立っていてくれるように案内人と打ち合わせしたのもイエスです。丁稚(でっち)や見習(みならい)ならば、手助けになりますけれども、男たちは何もできない連中だったようですからとてもじゃありませんが弟子とは呼べません。
イエスが殺害された後に、イエスが復活したという神話を基に誕生した教会の中で、イエスの直弟子だったと言えばかっこ良いですし、そのことだけで十二使徒と呼ばれるようになったんですけれども、初めの内はイエスに集(たか)っていただけの男たちです。
【権威主義者が作った教会】
十字架事件からざっと四十年以上経ったころには、教会の組織や階級制度を直弟子たちを中心に据えたエルサレム教会を作ったことから判るように、教会は権威を大切にしていました。
権威に従う人は頭(かしら)が代われば変わりますから信頼できません。イエスが捕らえられたときに男たち全員が逃げてしまったことからも信頼できないことが判ります。
権威に従う生き方しか知らない人々が作った教会が「イエスが仲間を集めた」という出来事を「弟子の召命(しょうめい)」などと教えたのです。これはイエスの生き様に反しています。そもそも、権威主義に反発していたイエスが、通りがかりの人々を自ら徴用して弟子にするはずありません。イエスは、権威に騙されない現実(真実)に沿った生き様をなさいました。この事実を伝えるために、マルコはイエスの生き様をそのまま描いて、イエスの原点(振り出し)に戻る道を人々に理解してもらおうとしたのだと思います。
【ぼくたちは】
イエスは服従を求めません。ぼくたちの意思を大切にしてくださるのがイエスです。イエスは服従を求めません。あなたの意志を尊重します。これが人の真実な生き様です。
命令して服従を求めるのは権威主義です。現在の社会を見ても判るように、服従を求める権威者に真実はありません。教会が服従を求めるならば、権威主義の教会はイエスの福音に反しています。そんな教会はいりません。教会は権威主義を捨てて、イエスの生き様という原点に戻る必要があります。
今だから言えますけれども、ぼくは神からもイエスからも召命を受けていません。西野バプテスト教会(人々)が誘ってくださったから牧師になれたんです。これが事実(真実)です。権威による命令なんか必要ありません。必要なのは求めてくれる人が居るという事実です。