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「救われない人が救われる」20200719
「救われない人が救われる」20200719
聖書 マルコ 一章二十九節〜三十四節
先週お話ししましたように、ユダヤ教の会堂でイエスが頼まれもしないのに、勝手に教え出したことに腹を立てた人々は、イエスを軽くあしらった後、会堂から追い出したんです。彼らが、イエスを敬ったとはとても思えません。
【シモンの家に行った】
会堂から追い出されたイエスと仲間たちは、お腹も減っていたんでしょう。友達になったばかりのシモンの家に転がり込んでおります。シモンというのはペトロのことです。この名は、イエスがシモンに付けた(マルコ二章十六節)あだ名です。岩のような頑固者だったのかもしれません。
しかし、間の悪いことに、シモンの家では、姑(しゅうとめ)が熱を出して寝ていた、と書かれています。それを知っていたら、いくらシモンでも、仲間やイエスを連れて行かなかったでしょう。
ところで、姑とは妻のお母さんのことです。ペトロは妻帯者だったんです。イエスをはじめ弟子たち全員を独身の若者だと思い込んでいるかたが意外と多いんですが、現実は違います。
余談ですが、教会が出来てからは、使徒たちと主(イエス)の兄弟(ヤコブ)、そしてケファ(ペトロ)たちは信者である妻を連れて歩いていた(第一コリント九章五節)という記録もあります。
とにかく、会堂を追い出されたイエス一行は、ペトロの家に行ったんです。ところが、家に着いてみると、ペトロの姑が熱を出して臥(ふ)せっていたということです。本当は熱なんか出ていなかったと想像しています。
漁師の仕事を途中でほったらかして、弟と一緒にどこかをほっつき歩いていた婿(むこ)殿が、突然に、漁師仲間と、漁師じゃない訳の判らない人を家に連れて帰ってきたんです。
主婦のみなさんならお判りのように、こんなことが起これば、元気な人でも、急に具合が悪くなるもんです。ちょっと具合が悪いんで、今日のところはお帰りください、てなところでしょう。
【イエスは姑の手を取った】
姑が熱を出して臥せっていると聞かされたペトロは、そのことを、すぐに、イエスに知らせた、ということですから、体裁(ていさい)良く、帰ってもらおうとペトロも思ったんでしょう。ところが、イエスは、家にドカドカ入って、彼女のそばまで行ったかと思うと、彼女の手を取って引き起こしたんです。イエスって強引な人です。ところがなんと、ペトロの心配をよそに、姑は、熱なんか全くなかったかのように、元気に一同を「おもてなし」したんだそうです。イエスのことを気に入ったんでしょう。婿殿やその友達の漁師どもとはちょっと違うなあ、てなもんです。げんきんなものです。
【奇跡の正体】
シモンの姑は、身体的な病気が治ったというよりも、イエスに会って、イエスに触れられて、元気になったんです。気分を害して機嫌が悪くなると病気になります。病気の原因の一番はストレスだと言いますからね。逆に、機嫌が良くなったら元気になるんです。
姑から、ブツブツと文句を言われるだろうと思っていたペトロにとって、イエスがなさったことは、まるで奇跡だったんでしょう。現実はこの程度のことだった、と思います。こんな奇跡なら、ぼくらの中にも、経験をした人は多いはずです。
こんなふうに、人の様子が全く変わって、性格や考え方が正反対のような人になることこそ奇跡です。変わるはずないと思っていた「人が変わること」、たとえば、迫害者であったパウロが伝道者になったこともそうです。これが、現実に起こる奇跡です。
人が変化した奇跡を目の当たりにした人々の噂(うわさ)が噂を呼んで、イエスの下に人々が集まってくるようになったんでしょう。
【立派でない人が集まった】
イエスの周りに集まったのは、立派な人々じゃなくて、会堂に行けないような人々です。
すなわち、自信たっぷりに「自分たちこそ神に仕える礼拝をしているんだ」と、言える立派な人々は会堂に集まります。
ところが、イエスの下に集まった人々は、自信のない人、身体や心や経済的に生活に問題を抱えている人々ばかりでした。ユダヤ教の会堂にいる人々からは「罪人」というレッテルを貼られ、宗教集団から爪弾(つまはじ)きされ、追い出された者たちばかりです。こんな人々は、イエスの時代だけにいるんじゃなくて、現代社会にも溢れかえっています。
たとえば、採算の悪い労働者、勉強できない人、金ばかりかかる病人、面倒な老人、非生産的な障害者、ちょっと変わった人、真面目なのにオドオドしている人、そういう蔑視(べっし)されている人々です。学校でも、会社でも、地域社会でも、いじめられたり無視されたりしている人々、疎外(そがい・・・よそよそしく、のけ者にされる)されていることを感じて生活している人々です。社会の立派な構成員とは認められていない人々です。
【イエスは会堂から追い出されて学んだ】
イエスはユダヤ教の会堂で福音を伝えようとする度に、相手にされず、バカにされ、追い出された。その度に、イエスの福音を待ち望んでいる多くの人々が会堂の外にいることに気付かされたはずです。罪人と呼ばれた人々こそが、福音を語るイエスを待っていました。この事実を、イエスは会堂から追い出された経験の中で悟ったに違いありません。
【宗教や常識が救わない人々を救う福音】
イエスの福音宣教に耳を傾けた人々は、宗教の聖域に入れてもらえない人々ですから、既存の宗教や様々な教えでは救われない人々です。このような人々が救われるにはどうすればいいのか、ということをイエスは一所懸命に考えたはずです。なぜならば、イエスも救われない人々の一員だったからです。
このように、イエスは様々な社会経験をして、既存の宗教が、利権者など一部の人々を支えるために作られたものだということに気づいたはずです。
あらゆる階級層の人に「教えに従えば救われる」と教えていても、「従わない人」を救う気はない、というのが既存の宗教です。このような、宗教のカラクリをイエスは見つけたんだと思います。
そこで、イエスは、既存の宗教では救われない多くの人を救うために、真実を語る福音宣教を始めたんだと思います。
イエスの福音宣教は、考え方が論理的で筋の通ったものであったにもかかわらず、宗教に洗脳された当時の知識人や宗教を利用して儲けた成功者は、聞く耳を持っていませんでした。
神は正しい者を救う、という考えを基礎に据えている人にとっては、イエスの教えは、全く馬鹿げたことです。
会堂から追い出されたイエスは、自身も会堂を捨てて、それからは積極的に会堂じゃないところで、自分の教えを必要としている人々がいるところで福音宣教を始めたんです。
イエスの周りにたくさんいた熱心なユダヤ教徒にこそ、宗教の呪縛から解放されて欲しいと思っていたイエスは、活動を方向転換して、礼拝堂の外、街角や町外れの野原や山裾で話すことを積極的に始めたんだと思います。
【弟子たちは余され者】
家業をほったらかしにしてどこかに行ってしまっていたペトロは、姑からも嫌われていたはずです。それほどロクでもない人だったはずです。決して社会で言う優れた人々じゃありませんでした。
イエス自身が宗教社会の余されものだったんですから、後に弟子と呼ばれるようになった人々も、余され者だったはずです。
間違っちゃいけません。イエスは立派な人を作ろうと思ったんじゃありません。神に従う立派な信者を作ろうとしたんじゃありません。
そんな宗教なら、そんな教育なら、履いて捨てるほどあります。そんなものがいくらたくさんあっても、それらによっては救われない人が、星の数ほどいるんです。それほど多くの人が見放されていることが重大な社会問題です。
ほっといても頑張る人はたくさんいます。頑張っても実を結ばない人がたくさんいます。そういう人々がどうすればいいか、ということが問題なんです。がんばればなんとかなる。夢を捨てなければ叶えられる。成功者が言うから本当に聞こえますけれども、全部確かなことじゃありません。「かもしれない」程度のことです。成功しなかったら、頑張らなかったからだ、ということになるだけです。そんな考え方によっては人は救われません。
世の中の考え方や価値観を根本から考えなおすことが必要なんです。それが、イエスの福音の出発点です。
【イエスは失敗者】
殺されたイエスは、世間の論理から見れば失敗者、挫折者、負け犬です。
でもそんなイエスがいてくれて、そんなイエスをそのまま紹介してくれた福音書記者がいてくれたから、ぼくらはイエスの生き様を知ることができました。そして、イエスが殺されたことに意味を見つけることができるんです。
イエスは真実を語ったから殺されました。そこから判ることは、イエスを殺した社会が嘘つきだということです。これに気がつけば、今までの価値観に囚われない生き方ができるようになり、自分を肯定できるようになります。自分の生き方を肯定することから自分の生き方を始めればいいんです。
どんな状態であろうとも、そのままで、まず認められること、そのまま抱き留め包まれることが救いです。それさえ経験すれば、そこからその人自身の生き方を始められます。自分の生き方をしていいことが判れば、ほっておいても人は自分の意思で頑張るでしょう。それがいいんだと思います。
【ぼくたちは】
上からの命令に従う人間にならねばならない、という教えから自由になればいい。今まで基礎だと思っていた教えから自由になればいい。そのように、囚われた状態から自由になること、それが救いの始まりです。
奴隷たちがエジプトから逃げ出して、奴隷として飼育されている基盤を捨てたことが、救いの原点であることとも一致しています。
奴隷のままではいつまでも自由がありません。先が読めないままで故郷を捨てたアブラハムのように、自由人になることが救われることです。
これを、あなたの新たな生活の始まりにしましょう。