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「心が動かされることをする」20200927

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「心が動かされることをする」20200927

聖書 出エジプト記二十章十二節〜十一

 

 先週は空模様が不安定でしたね。ぼくも何度か雷鳴(らいめい)を聞きました。雷が嫌いな方には考えられないと思いますけれども、モーセは、雷鳴がとどろき、火山が煙を吹き上げているという恐ろしい状況の中で、神語りかけを聞いたことになっております。

 申命記にもモーセの十戒が書かれていますけれども、申命記には、雷の記述はありません。火山が噴出する煙の中で稲妻が走り雷鳴が轟く場合がある、ということを、申命記の著者は知らなかったのかもしれません。

 出エジプト記と申命記のいずれにしても、とにか大きな音を伴って突然に起きる災害のようなろしい出来事を背景にして、神は登場させられていると言えます。近寄ることも許されないほど神は恐ろしいという事を端的に表現しているんでしょう。

 

【神はカミナリらしい】

 ちなみに、神という字は、雷(かみなりと関係があるそうです。示(しめす)偏(へん)に申(もう)すという旁(つくり)を書きます。申という字は雷の稲光(いなびかり)を意味していると言います。そして示という字は供物を供える台らしいです。詳しくは知りませんけどね。

 雷を、神が怒っているとか、神が声を発しているなどと昔の人は考えたんでしょう。モーセが神の言葉をいただいた状況というのは、まさにそれにぴったり付合しています。

 凡人(ぼんじん・普通の人)は、そんな危険な所に近づきません。けれど、モーセは死を覚悟の上で火山に登っていったようです。勇気のある人ったんでしょう。知りませんけどね。

 他の民に対して近づいちゃならない命令しておきながら、モーセは自分だけが山の上にまで登って行ったんです。そして神の言葉を預かって帰って来たんだって言っている訳ですから、あやしいもんです

 

【十戒の後半は人間関係のこと

 今日読んでもらった、十戒の後半部分には、父と母を敬えとか、命も何もかも、隣人のものを奪ってはならない、ということに要約できると思います。つまり、人間社会のあり方についての基本が書かれています。

 これ以降、三十一章まで、延々と書かれているのは、ほとんど「ねばならない」という命令ばかりです。そして、「主はシナイ山でモーセと語り終えたとき、二枚の掟の板、すなわち、神の指で記された石の板をモーセにお授けになった」(出エジプト記三十一章十八節)と書かれています。そしてまた三十四章からほとんど命令ばかりが続きます。神の命令を記録した、という体裁(ていさい)を摂っていますけれども、実は、王たちの醜い行いを暗に批判しているんだろう、とぼくは考えております。

 すぐに思い出すのは、王として尊敬されているダビデのことです。ダビデ、忠実な家臣のウリヤの妻バテシェバに目が眩み、これを奪い取るために王という地位を使って、策略を練ってウリヤを殺してバテシェバを自分の妻にした話は有名です。

 自分のために、隣人の豊かな土地を奪ったり、隣人を殺したり、そういう事をしちゃならない、という命令は、誰に対しても言えることなんですが、特に権力着ている人が、そんなことをしちゃならない、という戒めが書かれているはずです。

 安息日規定にせよ、隣人に対する規定にせよ、そのような命令の対象は社会の底辺に住む庶民してではなくて、権力を持つたちにする戒めであったはず

 このような法の精神を無視して、権力者自身が命令をする事は厳に慎まなければならない事です。ところが、律法の言葉が一人歩きする時には、弱いものをさらに弱くするために使われます。そういうことが起こらないようにするのが法の番人の役目です。ところが現実の社会では、権力者が自分のために、法を駆使しているです。

 

【命令のほとんどは祭儀的な事】

 今日の十戒の後半部分を過ぎますと、そこには命令ばかりが続きます。命令のほとんどは祭儀についてです。不思議でしょうエジプトから逃げ出した奴隷たちにとってこんな命令は無意味です。

 この時点では、当然まだ神殿はありません。ですから、神の近くで犠牲の供物をしたり、お言葉をいただくための会見の幕屋と呼ばれる、移動できる天を作るように指示されていたことになっているんですけれども、それにしても大掛かり過ぎます

 そこにお仕えする祭司や祭司の祭儀服などにも言及しています。要するに、神殿が完成してからでなければ必要ないと思われるようなものまで指示が出されいる事を考えると、エジプトで奴隷だった民族が荒野を旅しながらこんな命令を受けたとは、考えられません

 荒野で生活することに必死だったモーセが逃避行の間に、神殿での祭儀にしか関係ないような言葉を書き残したなんて、とてもじゃありませんが考えられません。

 この時期にこんな命令が出されたとは思えない、と判ってしまいますと、これらの文章、定住生活するようになってからの生活基礎にして書かれていることが判ります。具体的言えば祭儀に関わる律法は、神殿が建築されてから書かれたものであるがはっきりと見えてくるはずです。

 祭儀中心の礼拝の形を示しているものなので、ぼくらに関係ないことばかりです。そんなことがたくさん書かれているのがモーセ五書です。

 これらの命令の中に、王や支配者層に対する批判が、上手に書き込まれているはずですが、そうだとしてもこれらはからいただいた言葉であると伝えられた命令一人歩きしだしますと、多くの弊害をもたらすことになります

 

【恐れを背景にした命令に従ってはならない】

 とにかく、はじめに言いましたように、雷鳴と火山の噴火のような恐怖を基礎にして伝えられた命令などには、気を付けなきゃなりません。

 なぜならば、恐れをいだかせる状況を背景にした命令というのは、命令を発する側や命令を伝える側の都合を最優先にしているからです。ここをしっかりと見破っておけば騙されたり翻弄さえることはありませんから、その辺りのカラクリをよく見るようにいたしましょう。そうすれば、いろんなことが理解できるようになるはずです。

 「君たちが幸せに暮らせるように私は次のことを命じる」などと、そんな言葉を聞くことが多いです。職場でも学校でも家庭でも、そんな言葉は遠慮なく飛び交っております。命令に従えば、守ってやる、報酬をたくさん与えてやる、などと言われるんですけれども、そんなわけありません。あなたのことを本当に一番に考えているんじゃなくて、じているにとって最も都合の良いことを、命じている、と考えたほうが無難です。

 命令」というものの背後には、懲罰(ちょうばつ)規定があるのが普通です。命令に従えば報酬が、命令に反すれば懲罰が待っているぞ、という脅(おど)しがあるのが常です。

 そのような脅しを背景に持っている命令というのは、ほとんどの場合、命令する側に都合よくできているはずです。背後に報復の恐れをちらつかせた命令というのは、命じる側の利益が第一に考えられているはずです。そうだとすれば、律法を作り、それを盾(たて)にして、違反者に対する報復をちらつかせて命令する神など、いるはずありません。そんな自分中心の神などいるわけありません。そうだとすれば、命令しいているのは、神の名を利用している人間だと判るはずです。命令とはそんなものです。ですから、「あなたの幸せのためにこのように命じるという論理は初めから矛盾しています。このような命令は受け入れちゃならないものです。

 祭儀に使う器などは純金で作らなければならないなどと書かれているわけですが、そうすると、指導者たちはこの命令を民に伝えて、貧しい民の有り金を巻き上げることに使うわけです。

 犠牲の動物を捧げる時には、傷の無い最良のものを持ってこなければならない、と言う訳です。そのように、神の言葉の仲介者たちは、自分の懐を痛めないで、必要なものを全て庶民から調達しつつ、民を精神的に支配するわけです。神からいただいた言葉」という言い回しを利用して、仲介者たちは庶民を好き勝手にあしらっていたように思います

 いくら律法の言葉が立派であったとしても、本来の意味を悟った人が運用しなければ逆効果になって、律法は庶民を守るものではなくなってしまうんです。庶民の生活を平安にするには、自分のために命令する宗教の構造的な搾取(さくしゅ)の形態を見破らなければなりません

 

【イエスは心が動かされるままに歩んだ】

 イエスが偉かったのは、法律そのものを批判したんじゃなくて、法律の理不尽な使われに、指導者たちのカラクリがあることを見破った点です。

 イエスは、安息日規定を否定したんじゃなくて、安息日規定の理不尽な運用の仕方を拒否したんです。

 安息日には、何も仕事をせずに、神を礼拝することに専念しなければならない、と宗教教えていました。しかし、困っている人を見れば 、一刻も早く助けてあげたいと思うのが、人情(にんじょう)です。そこで、安息日であろうがなかろうが、イエスは癒しの業を行ったに違いありません。なぜ安息日にしてはならない仕事をするのかと詰め寄る宗教指導者たちに向かって神や神の言葉が中心だ、と考えていなかったイエスは「安息日の主役は人でしょうが」と言い切りました。安息日の真の意義をイエスは理解しておられたから、「安息日の主役は人である」とおっしゃったんです。ぼくたちも、イエスと同じ視点を持つことが重要です。

 ところがイエスの弟子を自称するキリスト教会の指導者の中に、日曜礼拝を守らない人、神への礼拝を中心にしない不届き者(罪人)であるかのように扱う方がいます。これは、イエスが批判なさったユダヤ教の指導者たちと同じ立場になっていることなんですが、それに気づいていないんでしょう。

 

【ぼくたちは】

 しかし、命令される側は、みんなこの矛盾感じとっているはずです。誰もが命令されることうのは、命令する人たちが、どこかおかしい、と感じているからだと思います。他人命令に動かされて生きることは、自分の生き様じゃありません。命令されたように生きている人が、幸せを感じられないのは当然です。安心して宗教を信じることができないのは、宗教が命令ばかりするからです。

 先週も言いましたように、人は命令なんかじゃ動きません。人が本当に動くのは、自分で感じ通りにする時です。

 イエスも自分の感覚を大切になさいました。ぼくら本当に自分の心が動かされることしましょう。自分が感じたように生きようとすれば、あなたは幸せ思える状態に一歩近づくに違いありません。

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