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「災いは罪深さと関係ない」20220529
「災いは罪深さと関係ない」20220529
聖書 ルカ 十三章十七節
今年七十歳になったのですが、先の日本の大東亜戦争以降、日本は平和だと思って来ました。しかし、ロシアがウクライナに侵攻してから、日本の平和も綱渡り状態であることを知りました。
たくさんの庶民が殺されたり故郷の家から追い払われたりしている現状をリアルタイムで見ることができるようになりましたけれども、リアルタイムで支援物資を送ることはできません。権力や財力を所有しているヴァチカンの教皇様でさえ「祈りましょう」と言うだけです。このような現状で教会にどんな存在意義があるのでしょうか。日本の教会は何ができるのでしょうか。
【存在意義が判らない教会】
もともと教会は、キリストを信じることによって救われるという福音を全人類に伝えて、一人でも多くの人を救わねばならないという使命を与えられていましたから、それをしていれば良いのだろうと思って来ましたが、このような教会の福音宣教活動は、今の時代に対してはほとんどインパクト(強い影響)がないように思えます。現在の教会の多くが衰退する方向へと進んでいることからも、時代に合っていないのは明らかです。イエスがなさった宣教や、キリスト教がおこなってきた宣教を、現代社会は必要としなくなったのでしょうか。
【イエスは危険に囲まれていた】
イエスが生まれた頃のイスラエルはローマ帝国の属国(従属国)でした。ということは、イエスは、平和ボケするほど安全な現在の日本のような状況で暮らしていたのではなくて、周りに危険がいっぱいある中で日々の生活をしておられました。街を歩いていて、ローマ軍の兵士たちとすれ違わなければならなくなったときには、路肩に寄って道を空けなければならなかったでしょうし、顔を見ないようにしなければならなかったでしょう。もちろん相手と目を合わせたりすれば、ひどい目に遭わされることになったでしょう。
こんなふうに考えながら福音書を読んだことありませんでした。しかし、戦争の現状を見て、それほど危険な状態だったことが判りました。
当時は、ローマに対する武力による反発が、すなわち今で言うテロ活動が何度も行われていたようです。事実、イエスが十字架で殺されてから四十年も経たない内に、すなわち紀元七十年にエルサレム神殿はローマ軍によって破壊されております。それほど危険な状態にあって、イエスは何をなさったんでしょうか。
【イエスがしたこと】
前回も申しましたように、イエスがなさったことを知るには福音書を読む以外に方法はありません。もちろん全てが書かれているわけじゃありません。ローマの機嫌を損ねないように改ざんされている可能性もありますけれども、福音書に依る限り、イエスは政治的な活動をなさらなかったようです。
ぼくらが予想することさえできないほどに、ローマ帝国の圧政下に置かれていたにもかかわらず、イエスは政治権力に対して直接的な運動をしていません。少なくとも、軍事的な蜂起を呼びかけてはおりません。
イエスは、いわゆる罪人に赦しを宣言なさっただけです。一般的な表現に言い替えますと、イエスは罪人扱いされていた人々に対して「君たちは罪人なんかじゃない」と言い聞かせただけのようです。
【民衆の自己理解】
当時の民衆は「おまえたちは、常々、神に対して罪をおこなっている罪人だ」と言われ続けていました。
人間関係で失敗するのも、事業や仕事に失敗するのも、自然災害に遭うのも、病気になるのも、恵まれない環境に生まれるのも、すべて「お前たちが罪人である証拠だ」と民衆は言われ続けていたのです。
何が起こなわれていたかというと、「わたしは罪人である」と全員が思い込むように洗脳教育がなされていたということです。何が罪なのかも判らないままに、人はみな「自分は罪人だ」と思い込まされて来たということです。
このようにして埋め込まれた自虐史観(じぎゃくしかん)が民衆の力を削ぎ、民衆が自立できないようにしたのです。なぜそんな教育が行われたのかと言えば、少数の支配者が多数の民衆を支配するために都合よかったからです。
自立できないままで、指導者に従う民衆を作るための教育機関が、宗教機関です。
宗教によって人は長年罪意識を植え付けられて来たのです。このような訳で、人は、自分の弱さや至らぬところを見つけて反省するのが得意ですが、長所を見つけるのが下手なのです。
そこまで追い詰めておいて、追い討ちをかけるのが宗教の専門家たちの役割です。専門家たちは、まるで神様の代理人であるかのように命令を発し、命令に従わざるを得ないようにするのです。つまり逆らえない人間を作るのです。
【罪意識で押さえられない人を作る】
イエスもユダヤ教の教えに捉えられ、自分が罪人であると叩き込まれてきたはずです。だから荒れ野で修行したのでしょう。しかし、冷静に考えた結果、ユダヤ教が教えているような、人を罪に定める神などいないと悟ったはずです。命令に従わない人間を罪人に定める神、罪人をタダでは赦さない神、犠牲の供物を要求する神、そんな神がいるはずありません。冷静に考えれば判ることです。
今日のルカ福音書にあるように「災いと罪深さは関係がない」というのがイエスの信念です。「君たちも悔い改めなければ皆同じように滅びる」という言葉はイエスの言葉ではありません。ルカが加えたルカの編集句です。
罪人であると思い込まされて来た民衆を洗脳から解き放って、イエスは、民衆の個々人の考える力を強くしようとしたのでしょう。生真面目な人の罪意識を払拭して、たとえ上から命令されても、自分で考えて自分の行動を採ることができる強い人にすることができれば、どんなに無謀な権力にも対抗できると判断したからです。
【ぼくたちは】
だからイエスは、ローマ帝国の圧政下にあっても、ローマに直接的に対抗する活動をなさいませんでした。そうではなくて、罪意識から個人を解放するために、赦しを宣言したのです。
命令されたことに従順に従うのではなくて、自分で判断する人をイエスは作りたかったのです。そうだとすれば、イエスが、自分の命令に従う信者を作ろう、などと願ったはずありません。
「キリストに従え」と教えるのは、宗教になったキリスト教です。イエスの願いではありません。民衆を罪人に定めて、民衆の罪意識を利用して、民衆を従順に従う信者にしようとするキリスト教は、イエスの意思に敵対しています。
クリスチャンになった後も、自分の罪意識に悩まされている人は、キリスト教という宗教に洗脳されているだけです。罪の自覚に悩んでいる全ての人に対してイエスは「あなたは罪人ではない」と言い聞かせておられます。イエスの言葉を聴いて、罪意識に支配されない強い人になってくださいますよう願っております。