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「イエスとキリスト」 20211017
「イエスとキリスト」20211017
聖書 ルカによる福音書 五章十八節〜二十節
できるだけ多くの人に関心を持っていただきたいと思って、ぼくは色々な方面の話題を取り上げながら説教を作ってきました。けれども、それだけでは力が湧いてきません。ぼく自身が最も大切に思っていることを展開することによって力が湧いてくるのです。それは何かと言いますと、過激な言い方に聞こえるかもしれませんが、「そのままでいい」と言われることです。
何も変わることのない状態で自分のことを百パーセント肯定しているなんてことは、いくら厚顔(こうがん・あつかましくずうずうしい様)で自画自賛するぼくでも考えていません。「これでいい」と思っているどころか、変わらなければならないと常に思っているのが現実です。
周りに居る人の嫌な面を見るたびに、自分も周りの人から嫌だと思われている面があると想像できます。できることなれば嫌だと思われるのではなくて、一緒にいて居心地がいいとか、一緒に居たくなるような人になりたいと思います。そのためにはどうすればいいかと考えて日々を過ごしております。ぼくを見て、まさかそんなことはないだろう、とお思いになる方が多いでしょう。しかし、豈図(あにはか)らんや、結構考えて努力しているのでございます。そうであるにもかかわらず、努力を全く認めてもらえていないとすれば、悲しい限りであります。この悲しみをどうすれば解消できるのでしょうか。
思い過ごしかもしれませんけれど、少なくとも、ぼくの周りには、ぼくに嫌がらせをしたいと思っている人はいないと思います。それにしても、他人の理解と自己意識がこれほどすれ違うのはなぜでしょう。
【好きな相手にさえ】
宮の森フランセスで、結婚式の司式をさせてもらうようになって、なんとまあもう十九年を過ぎました。新郎新婦のほとんどはお互いを好きになって結婚なさるんですが、「意見が違うとかで喧嘩するようなことがありますよね」と問いますと、みなさん苦笑いなさいます。ですから、すこぶる好き合っている関係でもすれ違いを起こすことは確実なのです。
そうであるならば、なぜこのようなすれ違いを起こすのかを確かめて、そんな状況に陥らないために策を講じたほうがよさそうです。
好きな相手には特に、自分をよく見せたいと思うものです。それ以上に相手のためにできることはなんでもしてあげたいと思うようです。
相手を喜ばせようとか、一緒に楽しもうとかするのですが、その気持ちさえすれ違ってしまうのですから悲惨です。
【相手のためにという自分の思い】
相手のために何かしてあげようとする時に、みなさんは何を考えますか。相手の気持ちを考えますよね。しかし、そこに落とし穴があるようです。すなわち、どんな相手であれ、相手は私と違うという基本を忘れてはなりません。
あの人のためにこうしてあげたい、と思う気持ちは判りますが、その時に、一番大切にしているのは「こうしてあげたい」という「わたしの気持ち」なのです。相手に必要なのは「これだ」と判っていたとしても、それは「わたしの考え」であって、相手を満足させるものではないということを肝に銘じておかなければなりません。
相手を思う自分の気持ちが通じなければ悲しくなったり腹が立つのですが、互いに相手を思いやっているからこそなのです。互いに相手を思いやっていることに変わりはありません。
【仕事の実例】
仕事をしていて思ったことを紹介しておきましょう。頼まれた資料を作った時に、頼んだ人が気にいるようにと試行錯誤して、時間をかけて、これで絶対に喜んでもらえると思うところまで仕上げて提出したんですが、えらく気分を壊されて突き返されてしまったことがあります。
そこではっきり判ったことは、相手が要求していることと自分が良いと思っていることは異なっていることです。よくある話でしょう。互いに悪い人でもないし、仕事を任せるくらいですもの、信頼してもいるわけです。互いに相手はこう考えているに違いない、とまで思い込んでいる訳です。相手のことを知っている、相手の考えを判っている、とお互いに思い込んでいるために、それほど信頼しているからこそすれ違いがおこるのです。もっとすり合わせしなければならなかったんです。
相手のことを判っていると思うからすれちがうんですから、悲惨ですけれどもしかたないのです。けっきょく相手と自分はちがう存在なのだと自覚しておかなければなりません。
ここで必要なことは、ほとんど信じられないでしょうが、相手の有り様の全てをそのままに受け取ることが、最も問題なく効率の良い方法なのです。
【裁く神はだれも認めない神】
さて、宗教を信じているかどうかにかかわらず、多くの人はお上(神仏)に気に入ってもらおうとしています。少なくとも罰を受けないためには嫌われたくないと思っているでしょう。
しかし、非の打ちどころのない神の前で良い子でいることなど出来ません。裁く神がいるならば欠点だらけの人を滅ぼすことは確実です。そうならないために神の子が十字架にかかって人類の身代わりの生贄(いけにえ)になってくださったんだと教会は教えてきましたけれども、身代わりを要求する神なんて自己中心でケチくさいとしか言いようがありません。
人間に無償の許しや愛を要求しつつ、自分に対する生贄を要求するなんて最低です。そんな神をなだめるために十字架にかかって死んでくださった神の子キリストを崇(あが)めなければ救われないなどという論理は破綻しています。
【イエスはそのまま受け止めた】
イエスは誰の許可を受けることもせず、相手に変化を求めることもなく、そのままの相手に赦しを宣言なさいました。相手をそのままで受け止めたという意味です。
こうなってほしいとか、こうしてあげたいとイエスも思ったに違いありません。けれども、イエスは自分の気持ちを押し殺して、見たままの人を義とした、すなわち、そのままのあなたで良いよって言ったんです。自己主張しかしない神も神の子も人を赦せませんから、はっきり言って、神の子キリストだから赦したんじゃありません。しかし、神の子キリストじゃないイエスは、相手を同じ人間として、そのままを受け止めました。相手と同じ人の子であることをイエスが自覚していたからこそできたのです。
【ぼくたちは】
だれもが何かを要求します。しかし、それは必ず失敗します。失敗してきました。残る方法はイエスがなさったように、とにかく相手をそのまま受け入れることだけです。これほど極端な思考はイエスにしかありません。これがイエスの福音そのものです。神の子キリストではなくて人の子(人間)イエスを受け入れたことで、ぼくも飾ることなく、そのままで受け入れられていることを知りました。だれでもここからスタートすれば、何に対しても安心して積極的に取り組むことができるでしょう。