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「地獄八景金持ちの嘆き」20201011
「地獄八景金持ちの嘆き」20201011
聖書 ルカ 十六章十九節~三十一節
何かなあ、聞いてみようかな、と興味を持たれるような説教をしたいもんだと、常々思っております。
優れた語りの芸として、日本には落語があります。ぼくは大阪出身ですから、性(しょう)に合うのは、なんと言っても上方落語です。夜もイヤホンを付けまして、聴きながら寝たりします。
面白い落語は、何度も聴くんです。筋は判っていますし、面白い場面を覚えています。とは言え、じゃあ、お前、やってみい、と言われたらできません。難しいもんです。
そんな落語のように、何度も聞きたくなるような説教を作りたいと思っています。そんな説教が五十個ほどできれば、あとは楽だと思います。日曜日は年間で五十三回前後ですからね。新しい説教を毎週考えなきゃならないという、苦労から解放される訳ですからね。
古典落語のような、古典説教を作りたいと願っています。新作説教を何度もやっていくうちに古典説教になるんじゃないかと思って、同じ箇所から同じような説教をしています。そんなふうにして、説教も古典になれば面白いでしょうね。「そろそろあの話が聞きたいです」てなリクエストにお応えして、次週の演目は「地獄八景金持ちの嘆き」です。なんてね、予告ができれば楽なんですけれども、まだまだそこまでは行けておりません。
なかなか、古典にならないのには、もう一つ大きな理由があります。時々、びっくりするんですが、何度も話していることに対して、今日初めて聞きました、てな反応をみなさんがなさる時です。何度も話してるのに、覚えてないんだなって、こちらの方がびっくりします。そんなことが多いので、なかなか古典にならないんでしょう。
【地獄八景亡者の戯(たわむれ)】
さて、もう十三年ほど前に、「地獄八景」という題でした説教を、今日は今の自分の感覚で焼き直してみることにしました。
落語に「地獄(じごく)八景(ばっけい)亡者の戯(たわむれ)」という古い話があります。
米朝が発掘なさった古いお噺(はなし)のようです。米朝と言っても、アメリカと北朝鮮のことじゃありませんよ。人間国宝にまでなった桂米朝(かつら べいちょう)さんのことです。若い方は、もうご存じないかもしれません。米朝さんは、古い大阪弁を使います。今の漫才師なんかとは随分違います。まるで父親の話を聞いているようで、好きなんです。とにかく、この噺の内容は、誰もが一度は行く「冥途(めいど)の旅」とやらを、おもしろおかしく物語にしたもんです。
ある人が、突然に死んで、賽の河原(さいのかわら)にやって参ります。他にも、ちょっとしたはずみで、死んだ人たちが、登場します。それから三途(さんず)の川を渡し舟で渡る場面やら、船賃を取られるやら、地獄の沙汰も金次第ということで、お裁きを軽くしてもらうためのお題目を買わされるやら、閻魔大王(えんまだいおう)の前に出て裁きを受けるやら、煮え立った釜に入れられるやら、針の山に登らせられるやら、人呑鬼(じんどんき)に呑み込まれるやら、といった本来は苦しむはずの死の世界で起こる出来事をおもしろく乗り切ってしまう、という、お笑いです。
【シリアスを笑う】
落語のような大衆芸能は、シリアスな(厳粛な、まじめな、重大な)問題を、深刻に語らないで、笑い飛ばします。そこが面白いんですね。
それにしても、死後の世界という題材を落語に出来るということは、庶民に、死後の世界のお裁きや極楽や地獄という共通の概念が刷り込まれているからできることです。
共通の概念というのは、誰でも死ぬこと、死後の世界があること、誰もが死後に裁きを受けること、生前に善いことをした人は、死後に良い所に行き、そうでない者は地獄へ行く、などということです。なぜか世界中にこのような概念が広がっております。しかし、このような概念の内で、ハッキリしていることは、ただ一つ、誰でも死ぬ、ということだけです。それ以外は、誰も知らないまったくの作り話です。そうであるにもかかわらず、死後の世界があると真剣に考えている人が多いんですから、騙されているとしか思えません。
【聖書にも】
今日読んでもらった、ルカ福音書の「金持ちとラザロ」の話(ルカ福音書十六章十九節~三十一節)も、まさに死後の世界の話です。
まず、注意してもらいたいのは、聖書に書かれているとは言え、事実じゃないということです。落語と同じように、「創作物語」であるということを忘れないようにしていただきたいと思います。「聖書は神の言葉やから一字一句間違いがない」「聖書に書いてあることは、その通り全部真実や」と考えないようにしてくださいね。
ここに書いてあるような死後の世界が、どこかに本当にある訳じゃありません。
【陰府(よみ)八景】
「むかしむかし、ある所に、お爺さんとお婆さんがいました・・・・」という昔話と同じように、「ある金持ちがいた。・・・・」という書き出しで始まります。
ある金持ちとラザロという乞食が死んで、あの世に行きました。あの世では、金持ちだった男が、陰府(よみ)で苦しんでおります。ふと見上げると、乞食だったラザロが、宴会の上席、アブラハムのすぐそばにいるじゃありませんか。
元金持ちは、「祖先アブラハムよわたしをあわれんでください。指先から滴(したた)るほどの水で良いですから、ラザロをよこして、わたしの舌を潤(うるお)してください。炎の中で、わたしはもだえ苦しんでいるんです。」と言いました。
「なに言うてんねん。お前は生きている間に良いものを貰うていたやないか。ラザロは反対に悪いものを貰うてたんや。今はラザロは慰められて、お前はもだえ苦しむんや。」「それにな、わたしたちとお前たちの間には大きな淵(ふち)、深い溝(みぞ)があって、どっちからも渡れんのや」と答えが返ってきました。
水を貰うことを諦めた金持ちは「そしたらお願いがあるんですが。わたしの五人の兄弟が、こんな所に来ないでいいように、ラザロを遣わして、よく言い聞かせてくれませんか。」と言いました。
「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいるやろ。彼らに耳を傾けたらええやないか。」とアブラハムは答えた、ということです。「モーセと預言者」というのは、旧約聖書のことですから、「聖書を読んだら判るやないか」という意味です。
すると、「いやいや、祖先アブラハムよ、死んだ者の中から誰かが兄弟のところへ行ってやれば、なんぼなんでも悔い改めるでしょう。」と金持ちの男は言います。
しかし、アブラハムは「いやいや、モーセと預言者に耳を傾けないのであれば、たとえ死人の中から生き返って来た者が言ったとしても、聴かんやろう。」と答えた、というお話しです。
「死んだ人が生き返ってきて、証言してくれたら信じるわ」と多くの人は言いますけれども、確かにルカが言うように、「聖書を読んで判らん人は、死人が生き返ってきても聴けへんよ」ということは本当でしょう。
死人が生き返って、証言しても、「ホンマに死んでたんかいな。生き返ってきたんかいな」と疑うのが落ちです。そうだとすれば、聖書の言葉を信じるほうが、ずっと簡単だとも言えます。
【学べば良いってもんじゃない】
いくらそうだとしても、「聖書を学べ」ということを、教えるために、地獄の炎で焼かれる、などという脅しを利用してはいけない、とぼくは思います。なぜなら、いくら創作物語であったとしても、こんな物語を子どもが聞かされると、死後の世界の概念が、文字通りに刷り込まれてしまうと思うからです。
つまり、「死んだら、こんなとこへ行くねんでえ」とか「死んだら行くあの世では、立場が、この世と逆転するねんでえ」と脅した後に、こんな悲惨な目に遭うことがないように、しっかり聖書を学べ、などと教えるのはよくないと思います。
【笑えない噺はいただけない】
はじめに「地獄八景亡者の戯」の紹介をしましたね。落語を聴く人たちは、少しは地獄を恐れたとしても、まさか現実にそんなことはない、と思っているから、落語を聞いて笑い飛ばせるんです。笑い飛ばせる程度だったら良いんですが、落語じゃなくて、聖書の言葉となれば、話は違ってきます。死んだら、裁きを受けて、金持ちやラザロが行ったような死後の世界に行くのかなあ、と思う人がいるかもしれません。つまり、今日の「金持ちとラザロ」の話は、死後の世界を、シリアスにだけ説いているので笑えません。笑いがない、というところが本当に笑えないところです。
いずれにしても、こんな因果応報の世界観を教えるのは宗教です。あの世とこの世では状況が逆転する、というのはルカの思考パターンですから、ルカの創作物語でしょう。こんな話をイエスご自身がなさったとは思えません。
【ぼくたちは】
誰にも分からない死後の事を考えることも、論じ合うことも、しちゃならないことです。なぜならば、嘘や出まかせしか口に出せないからです。閻魔(えんま)さんがいないのと同じように、逆転する死後の世界を作る神もいません。だから、こんな物語で人を怯(おび)えさせてはなりませんし、怯えさせられる必要もありません。
ただし、現実世界の経済関係や人間関係が改善するように努力することは必要です。
現実世界の問題は、現実を直視することから始めるしかありません。死後の裁きを恐れさせる、という脅しでは解決の道を見つけられません。
今日の話とはぜんぜん関係ないことになってしまいますけれども、現実の問題は、自分が尊重してもらいたいように、隣人を尊重して接する、つまり、愛することでしか解決できないでしょう。ですからぼくたちは、恐れを刷り込む宗教なんか忘れて、イエスが教えた福音に常に立つことができるように、聖書を読んでまいりましょう。