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「祈りは隣人への願いです」20191013
「祈りは隣人への願いです」2019年10月13日
聖書 ルカ 十一章 五章〜八節
説教が完成したと思って、記録したはずが、終了の仕方が悪かったんでしょう。クラウド(雲)の中に消えてしまったようです。何も出てきませんでしたので作り直しです。ですから、今日の説教は、二倍の時間をかけて作られたものです。
想定外にいろんな出来事が起こるもんです。これが現実の疲れるところですが、しょうがないですね。祈りによって避けられるものなら、いくらでも祈りますが、多くの災害と同じように、現実には何が起こるかわかりませんし、祈りで止められないからには、ただ受け入れるしかなさそうです。
そうであるにも関わらず、宗教では祈りが強調されます。祈りって一体なんでしょうか。
祈り、といえば、もうすぐ、世界バプテスト連盟(BWA)女性部世界祈祷日というのがあります。
昨年は、十一月四日に、そのためのプログラムを当教会で実施しました。札幌近隣の教会から女性会の方々が集まって、世界のために祈り献金しました。
この活動の母体になったのは、アメリカ南部バプテストの女性連合です。アメリカの女性たちは世界宣教に熱心でした。そのお陰で、当教会の今日があると言っても過言じゃありません。その伝統を引き継いで年に一度近隣の教会が集まって、世界の国々のために祈り合い献金する活動が続けられているわけです。
【イエスは差別者であった】
昨年は、担当教会の牧師として、説教しました。その時に、初期のイエスは差別的な人であった、と申しました。この教会では何度も言っておりますので誰もびっくりしないでしょう。けれども、そのことがどれほど伝わったかわかりません。
とにかく、イエスは差別的な人でした。ユダヤ人というか、イスラエル人ですから、ユダヤ教の教えを受けて育った男として、女や異邦人(外国人)に対して差別感を持っていたことは間違いありません。
イエスが差別者であったなどと言いますと、熱心な信者さんの中には、びっくりなさる方があるでしょう。しかし、イエスも人間として生まれたからには、最初から完璧ではなかったはずです。
もういろんな所でクリスマスの準備が始まっています。このクリスマスには、イエスが赤ん坊としてお生まれになった、という物語が語られます。
他の赤ん坊と同じような赤ん坊だったに違いありません。格好だけが赤ん坊で、考えていることも喋ることも立派だった、なんてことだったら気持ち悪くて大変です。
子供の時は子供らしく生活しておられたに違いありません。そうだとすれば、青年期には青年の悩みを経験し、いろんな間違いもおかし、反抗期もあったはずです。
問題なく育った子供たちの方が心配です。何故ならば、大きくなってからの反動は大きいからです。いろんな問題を乗り越えて人は成長していくんです。ですから、イエスは初めから誤りなき神の子であった、なんて考えるのは大きな誤りです。独自の福音を伝え始めた頃のイエスは、まだ差別者でした。
昨年の世界祈祷日にした説教では、シリア・フェニキアの女が自分の娘を癒してほしいと頼んできた時に、イエスが「子供たちのためのパンを子犬にやるわけにはいかない」(マルコ七章二十七節)と言った場面を取り上げました。
イエスは、異邦人(ユダヤ人でないすべての外国人を指す言葉)の女を「犬」と呼んだんですから、イエスがこの女を厳しく差別していたことははっきりしています。
「イエスがこんな言い方をなさったのは、女の反応を見て、女から信仰心を導き出すためだったのだ」「イエスに差別意識なんかあるはずがない」と説明する人が必ずいます。しかし、それもまた、この女を激しく見下した失礼な言い方です。もしも、イエスが女を試すような言い方をしていたとすれば、それこそ、差別を露呈したことになります。
イエスはユダヤ教の教えを受けて育った男なんですから、差別意識を持っていたのは当然だと考えて読めば、なんの問題もありません。イエスには最初から差別意識がなかったんだ、などと、イエスを庇(かば)おうとするから変な議論が生まれるんです。庇う必要などありません。
【フェニキアの女は差別に屈しなかった】
話を進めましょう。イエスから酷く差別されたにも関わらず、女はめげずに、「子犬でも子供たちが落としたパンくずはいただきます」と言い返したことが重要です。娘のために一所懸命であったからでしょう。しかしそれだけではなくて、女は決して差別に屈していなかった、自己卑下していなかったことが幸いでした。
女の反撃を受けたイエスは、即座に反応しました。反発したんじゃなくて、女の論理を受け入れた、ということです。聴く耳を持っていたことは素晴らしいと思います。しかし、イエスが偉かったから、というんじゃなくて、イエスも被差別の経験者だったからです。
どんな関係にも差別はあります。イエスはユダヤ人という立場から、異邦人を差別することはできましたけれども、同じユダヤ人の中にあっては、差別される側にいた人です。
クリスマスの神話では、イエスは聖霊によって生まれた、と言いますが、別の立場の人は、本当の父親が誰か知らないだけだ、と言うでしょう。性に厳しい社会は、この事実だけで、イエスを罪人扱いしていたと思います。結果的に、イエスは被差別者の苦しみを十分知っていたはずです。このような裏事情があったから、自分が差別した女が、返してきた言葉に、イエスは敏感に反応することができたんだと思います。
そして異邦人の女の言葉によって、イエスは、福音がユダヤ人だけのものでないことに気付かされたんだと思います。そうだとすれば、異邦人を差別しちゃいけない、ということをイエスは異邦人の女から教えられたことになります。
異邦人の女は、、差別なんか物ともせずに、自分を差別したイエスに対して、堂々と願い出たんです。もちろん、願い出る人に資格は不要です。
信者の中には「私には祈る資格もありません」などと謙遜ぶる人がいますけれども、祈る人に資格なんか必要ありません。そもそも資格があるほどの人ならば祈る必要もないんじゃないでしょうか。
願い出ることぐらい、誰にでも自由にしていいことです。それくらいの自由があることを、この女は身体で理解していたに違いありません。
【祈りにくい現状】
話は変わりますけれども、最近は、当教会の執事さんたちが、祈りにくい、と感じているようです。先々週も「祈らなくていい」という題名の説教をしました。その際、そもそもイエスは祈らない人だった、ということまで言いました。そして、弟子たちにせがまれたから、しょうがなくて、いわゆる「主の祈り」をお教えになったんだろう、とさえ言いました。そんな説教を聴かされたら、祈りにくくなったことも納得できます。
イエスが教えた祈りの特徴は「アバ」(パパに相当)と呼びかけていること、もう一つは短いということでした。
神が全能であるならば、祈り願う前から、何が必要であるか、全部ご存知のはずです。そうであれば、確かに誰も長く祈る必要はありません。祈りたくても、いわゆる「主の祈り」だけで十分だろう、と言ったんです。
そうは言いましたけれども、実は、これに続く箇所に、しつこく熱心に祈れば願いが叶えられる、と思わせるような記事が続いております。しつこく祈ることを奨励するような物語が書かれているんです。
相反するようなことが書かれているので、皆さんが、実際にどう解釈して何をすればいいのか、わからない、と感じたのも無理ありません。
そこで、自分のためにも、この箇所をじっくり考えてみました。
【夜の訪問者】
夜分遅くに訪ねてきた友達のために隣人にパンを借りに行くという状況説明があります。しかし、隣人に、断られるんですね。一度や二度断られても、しつこく願い出れば、願いをきいてくれる。ということです。でもそれは友達だから願いをきいてくれたんじゃなくて、しつこさに根負けして、「わかった、わかった、なんでも持っていけ」ってことになるだけだ、と書かれています。けれども、何度読んでも、果たしてそうなのかなあって、昔から疑念を抱いておりました。というのも、ぼくならば、あまりしつこくされると、怒って戸を厳重に締めて布団をかぶって寝てしまうように思うので、この話のようになるとは思えなかったからです。ぼくの感情はともあれ、話の中では、しつこく願えば叶えられることになっております。
ここで、皆さんに気づいていただきたいのは、パンを借りに行った男の話と、先ほど紹介した異邦人の女の願いに、共通する部分があることです。
女はイエスに願い出ています。そして、友達の訪問を受けた人は隣人に願い出ています。どちらも人間関係について書かれた物語だということです。
すなわち、願いを受けたイエスも隣人も、どちらも人間だということで共通しています。
神に願い出ることを「祈る」というんでしょう。しかし、神が全能ならば、祈る前から必要なものはご存知のはずですから、しつこく祈る必要はありません、しかし、人が相手ならば、しつこく願うことが必要だということでしょう。
【ぼくたちは】
それでは、ぼくたちが礼拝の時にするような公の祈りは何なんでしょうか。
一見して、ぼくたちは、見えない神に祈っているようです。けれども、現実に、そこで聴いているのは、一緒にいる人です。
自分の心から湧き上がってくる願いを聴いてくれているのは、近くにいる人です。
聴いているのは人ですから、できることもできないことも当然あります。けれども、心からの叫びを聴いた人は、それに応えるために、自分にできることがあれば、してあげようって思うような気がします。祈りとは現実にそういうもんだ、とぼくは思います。
出エジプトの事件の際にも、エジプトで奴隷になっていた民の叫びが、何十年も経ってようやく神に届いた、というのは理に適わない説明です。
四十年という長い月日が必要だったんですけれども、奴隷の民の叫び声は、モーセに届いたというのが事実だと思います。モーセは出身の民の叫びを聴いたから、自分ができることをするために動き出したんだ、とぼくは考えております。
見えない神への祈りという形を通して、ぼくたちは見える隣人へ、願いを伝えている。それがいわゆる「祈り」の現実の姿です。
だから、ぼくは、開き直っていいましょう。「祈りは隣人への願いです」