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「ガザで生まれるメシア」20231203
「ガザで生まれるメシア」20231203
聖書 マタイ二章一~十二節、ルカ二章八~二十節
十二月になると、クリスマスに浮かれる子が増えます。ぼくが物心ついた頃にはすでにクリスマスプレゼントを貰える喜びに胸を踊らせていました。敵国の言葉を使ってはいけないと言われていた頃から十年ほどで敵国のキリスト教の祭りに浮かれていた日本人って、今考えれば筋が通っていません。
ツリーやリース、プレゼントやケーキ、かわいいカード、みんなメルヘン(幻想的なお伽話)が好きなのは理解できますけれども、意味を知らずに世界中の祭りを取り入れる日本人は、心が分裂しているようです。
クリスマスとは、「キリスト」と「マス」つまりカトリックのミサ(礼拝、崇めること)の合成語ですから、クリスチャンでもないかぎり、気軽に祝えるもんじゃないはずですが、「そんなことかまわない、利益があって、楽しければいいじゃないか」といういい加減な人が多いのでしょう。
こう言いますぼくも、小さい頃はプレゼントをもらうことを期待していました。もらえるんだからいいじゃないかということで、面倒なことは考えませんでした。しかし「タダより高いものはない」と言いますように、大変な代償を払わされているのかもしれません。気をつけるべきです。
大人になってもしばらくはクリスマスを楽しんでいましたけれども、真面目に聖書を読むようになってからは、喜びよりも疑問の方が頭をもたげてきて、楽しめなくなりました。
いまはこのようなお祭り騒ぎになってしまったのですが、ぼくらは、この祭の原点、すなわちイエス誕生の物語を知っておく必要があると思いますので、ご一緒に考えてみましょう。イエス誕生の物語はマタイとルカ福音書にあります。
【星占い師たち】
星の運行によって、新しい王が生まれることに気づいた東方の星占い師らがユダヤを訪れた場面を見ますと、星に導かれたということですから、世の初めから、この時が定まっていたという印象を与えたかったのでしょう。先入観というのは怖いもので、王を捜しに来た彼らは、ヘロデの王宮に行ったのです。しかし、用向きを伝えても何のことか理解できなかったヘロデは不安になったといいます。
【ベツレヘム】
ヘロデは彼らを待たせたまま、自分の学者たちに調べさせて、メシアはベツレヘムに産まれる(ミカ書五章一節)ということを突き止めます。
ヘロデは星占い師たちに、星が現れた時期を確かめた上で彼らをベツレヘムに送り出しますと、東方で見た星が先立って彼らを幼子のいる場所の上に導いたといいます。星に導かれていたのなら、王宮に行かなくてもよかったようなもんですが、見誤ったんでしょうか。彼らがようやく見つけた「家」(馬小屋ではなくて家)に入ってみると、母マリアと共にいる幼子を見つけたので、彼らは幼子を拝んだのだそうです。その後、夢でヘロデのところには戻らないようにというお告げを受けたので、別の道を通って帰って行ったということです。だまされたことを知ったヘロデは怒って、ベツレヘムあたり一帯の二歳以下の男の子を皆殺しにしたと書かれています。おかしいなあ、なぜ二歳以下なのかなあと考えてみまして判ったことは、イエスが生まれてすぐのことではないということです。劇のように、学者たちと羊飼いが出会うことはあり得ません。
【救いの原点】
ヘロデの虐殺が実行される前に、夢でお告げを受けたヨセフは、二人を連れてエジプトに逃げて、ヘロデが死ぬまで、イスラエルに戻りませんでした。さらに、イスラエルに戻る前にも夢でお告げを受けたヨセフは、ガリラヤ地方のナザレという町に引きこもったんだそうです。
男の子たちが皆殺しにされるという危険から逃げるためにエジプトに行ったというのは、モーセの故事にイエスを重ねたのでしょう。
「ダビデの子、イエス・キリストの系図」という言葉で福音書を語り出したマタイは、このようにして「イエスこそメシア、偉大な王である」と示したかったんだと思います。しかし、そんなマタイであっても、イエスがベツレヘムに生まれ、ガリラヤのナザレで育ったという事実を隠せなかったことが判ります。とにかくイエスが、満ち足りた環境で生まれたのでないことは事実です。
【羊飼いたち】
イエスが誕生なさった場面を描いているもう一つの箇所はルカ福音書です。ルカは、イエス誕生の場面に羊飼いたちを登場させました。「メシアがお生まれになった」という天使のお告げを受けた羊飼いたちは、お告げの通りベツレヘムで「飼葉桶に寝かされている」幼子を見つけた(二章十六節)と伝えられています。羊飼いたちは喜び、空では天使が讃美している様子は、メルヘンチックで、美しくて楽しそうに思えますが、それは美しい誤解です。
夜に野にいてお告げを受けた羊飼いは、みんなが寝ているときに外で働いている労働者です。卑しめられている人々を代表していると思われます。彼らがイエスを見つけたベツレヘムという田舎町はダビデ王が生まれた町であることから「ダビデの町」(サムエル記上十六章)と呼ばれることもあったようです。すなわち、ここでもダビデ王というメシアとイエスというメシアが重ねられているようです。エルサレムではなくてベツレヘムという田舎町でイエスがお生まれになったことは、誇らしい出来事なのだと教えているようです。
イエスは、何も準備のない所で産まれました。しかしそれこそがメシア誕生の印である、とルカは高らかに言いました。メシアは王宮やきらびやかな街のお祭り騒ぎの中でも、大きなクリスマス・ツリーの下でも産まれないことをルカも正しく気づいていて、それを伝えています。
【僕たちは】
こどものころは、ツリーに点滅する光に憧れたぼくも、今はイエスの誕生ときらびやかな光は関係ないと理解しています。メシアは力強い神ではなくて、周りの人間が助けなければ生きられない赤子として産まれたのだとマタイもルカも伝えているのです。これらのメッセージをベースにして、現代にイエスのようなメシアが誕生する状況があるとすれば、どのような所だろうと想像してみますと、まさに、子どもの命が狙われている現在のガザだと思いました。
マザー・テレサが路上で死に行く人を介抱したのは、彼らにイエスの姿を見たからです。同じ視線で見れば、ガザで生まれた赤子は飼葉桶に寝かされたイエスです。まさに今、ガザで生まれた赤子は、将来に多くの人を救うメシアなのかもしれない、と福音書記者たちのメッセージを聴いて思いました。