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「概念の神を捨てなさい」20220508
「概念の神を捨てなさい」20220508
聖書 ガラテヤ 一章十一節~二十四節
西野バプテスト教会の牧師になって十八年目になります。この間に社会情勢はもちろんですけれども教会も変化しました。また何よりも自分が変わりました。昔の写真を見ると、これはいったい誰かなって思うほどです。六十億個ほどあると言われる人間の細胞のほとんどは入れ替わっておりますから、昔の自分と今の自分は全く別者です。
【今のぼくは昔のぼくじゃない】
毎週の説教を作るために昔の説教を読み返すことがあります。その時代の説教としてはなかなか良くできています。しかし、今は努力してできるだけ使わないようにしている「神」という言葉が、驚くほどたくさん使われていました。人間は「神」を知り得ない、と言いながら、人間が感知できない「神」がどこかに実在しているかのような語り口がやたらに出てくるので、不気味です。昔はぼくも教えられた伝統的な「神」のイメージに執着(しゅうちゃく)していたことは確かです。今のぼくは昔のぼくではありません。
【パウロも大転換した人です】
聖書の中にも、全く変わってしまった人が何人も登場します。中でもぼく自身が大転換するきっかけになったのがパウロです。
青年期のパウロは厳格なユダヤ教徒でしたから、自分の信条を否定するような、いわゆるキリスト教徒は抹殺すべきだと思っていたのですが、晩年にはキリスト教の最先端を突き進むほど変化した人です。なにしろ、多くの方が現在お持ちの聖書にパウロが書いたと称される手紙が十三巻も収録されているのですから、その影響力の大きさがわかります。とは言え、本当にパウロが書いた手紙、いわゆる真正(しんせい)の手紙は七つだけであとの六つはパウロの名前を付けた贋作(がんさく・にせもの)です。聖書の中に偽物があるなどと聞かされると度肝を抜かれる方も多いでしょうが、これが事実です。全体を通して、そういう贋作で聖書は満たされております。
【聖書は人のことば】
聖書も、所詮(しょせん)人間が書いた文書の集合体ですから、聖書が神の言葉であるはずありません。「聖書は神の言葉である」というのはキリスト教の信条ですから、人間が作った幻想です。そういうものであることを承知の上で、聖書を読む姿勢が読者に求められます。
善いことも悪いことも正しいことも間違っていることも書かれています。ですから、変更できない命令のように読んではなりません。
考えてみてください。世の中で権威になっている書物も観念や信条も、もちろん人間も、完璧に正しかったことなどあったためしはありません。勘違いや間違いを含んでいるという程度ならばまだ可愛いもんですが、嘘やまやかしをわざわざ伝えて、人をわざと混乱させるために書かれた教えがほとんどなので、全てに注意する必要があります。
教えに従わなければならないと考えれば堅苦しいですけれども、対話しながら読んでいいものだと考えると面白いもんです。
【信じているなら突き詰める必要がある】
「聖書は神の言葉である」という信条を本心から信じている人もいるでしょう。信条をむりやり捨てさせるつもりはありませんが、一言助言しておきますと、信じているなら信じているで、もっと徹底的に突き詰めた生活をなさらないと地獄行きになります。しかし、聖書の教え通りにどこまでも突き詰めた生活ができる人などいません。現実には、おおよそこの程度でいいかと思う生活をしているはずです。それでいいと思いますし、それしかできないとぼくは思うので、それならそれで、大らかに生活した方が楽ですよってお薦めしているだけです。
【パウロは行き詰まった】
徹底的に神に従おうとしたパウロは、改心させるためにキリスト教徒を捕まえ、拷問さえしたようです。精一杯努力した結果、やりすぎて殺してしまったこともあったようです。それほど努力した結果、パウロはサイコパスじゃなかったので、行き詰まったのです。
迫害している相手の生き様に接している内に、キリスト教徒が苦しんでいる姿が、鞭打たれ十字架に付けられたイエスと、パウロの中で重なったんだろうとぼくは解釈しています。パウロの頭の中は真っ白、目の前は真っ暗という状態になったようです。それまでの強い信仰が揺(ゆ)らいで、信仰が思い込みだったことに気づいたのでしょう。それはけっして恥ずかしいことではありません。それが人間というものです。
【パウロは回心した】
イエスの福音を伝えられたおかげで、パウロの基盤がひっくり返えってしまったというか、天動説を信じていた人が初めて地動説を受け入れざるを得なかったようなもんです。ユダヤ教の神様を教えられて育ったパウロは、そこからなかなか抜け出せなかったようですけれども、どうしても、それまでの神とは全く異なった神を想像せざるを得なくなったのでしょう。
ユダヤ教から伝え聞いた神のイメージを根底から覆すようなことを平気で考えて言えるようになったパウロは、同時に自分の生き様を根底から変えざるを得なくなったのです。
ユダヤ人の神概念から解放されたパウロはエルサレム教会の大御所にも挨拶なしで、いきなり異邦人(ユダヤ以外の民)にイエスの福音を伝えに出かけました。あれから三年、ケファ(ペトロ)に会うためにエルサレムに上り、二週間滞在したけど、他の使徒には会いませんでした。ただし、主の兄弟(イエスの弟)ヤコブだけには会った、と言っております。弟子でもなかったこのヤコブが曲者(くせもの)です。それから十四年以上後、アンティオキア教会で、異邦人と一緒に食事していたケファが、「ヤコブのもとからある人々」が来てからは、一緒に食事しなくなったのでパウロがケファを責めた事件があります。この時すでにユダヤ教の生活習慣が再びキリスト教会に入って、イエスの福音が犯されていたことがわかります。人は律法的に心を縛る宗教に執着しやすいのです。
【ぼくたちは】
ぼくが伝えられたキリスト教の福音もユダヤ教を継承していたので、ユダヤ教の神概念にぼくも執着していました。しかし、西野教会で説教するようになってから、マルコ福音書が伝えるイエスを深く知るようになりました。イエスもはじめはユダヤ教の神概念に執着していました。しかし、ユダヤ教の教えを批判している間に概念の神を捨てることができるようになった人だ、と今は考えています。
呼び名はいろいろありますが、地上のほとんどの人は概念の神に執着しています。そんな神に影響されて生活の自由を失くし、パウロのように人を傷つけてしまう人もいるほどです。ですから、人が作り上げた概念の神に執着してはなりません。むしろ捨ててしまいましょう。概念の神に関係なく、イエスが伝えたように、愛し愛されて生きているのがぼくたち人間です。概念の神はぼくたちを害します。目の前の人を偏見なく見ることができるように、概念の神を捨てて、真っ直ぐに人を見ましょう。