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「ジタバタするな」20201227
「ジタバタするな」20201227
聖書 マルコ 四章三十五節~四十一節
さて、先週はクリスマス礼拝を終えて、今日は二〇二〇年最後の日曜礼拝になりました。
今年は風邪のために世界中が大騒ぎになりましたね。経済もぐちゃぐちゃです。今後どうなることやら、政府がどうするつもりなのやらさっぱり見えてきません。混迷を深めている状況です。ぼくたち自身で進む道を創造して行かなければならないことが明白になった、と思います。
この騒ぎによって、判りましたことは、「風邪」が荒れ狂うままに、人間は翻弄されるものだということです。身体よりも、精神が、まことに弱い生き物であると言えます。
【いつの時代も変わらない】
先日、激動の世紀というNHKの番組を見ている間に、よくもまあ簡単に、群衆が操られるものだなあ、と呆れました。
悪名高い男が、ドイツの首相になったのは1933年だということです。まだ百年も経っていないんですよ。大昔のことじゃないんです。しかも、勝手に独裁者になったんじゃなくて、国民の選挙によって首相に選ばれているんですから、驚きです。つまり、決して他人事(ひとごと)じゃ済まない、と覚悟しておく必要があります。
見えない風邪の情報だけで、右往左往させられている庶民の姿を、目の当たりにしますと、いつ何が起こってもおかしくないと思います。というよりも、すでに良からぬ方向へと導かれているように思います。危うさは昔も今も、変わらずに存在している、と感じています。
誰でも、安定した生活を求めますけれども、実際には、不安定な中で、ぼくたちは常に激動の中で暮らしているようです。
力の強いものや大きいものが安定しているように思って、そこに近づこうと行動する習性がありますけれども、大きいものも決して安定していないようです。安定しているものなんて何もない、というのが現実です。
大地に足をつけて生活しなければならない、と言われますけれども、その大地も、時には大きく揺れたりするんですから、どうしようもない、というのが事実です。
【嵐の中の弟子たち】
今日の物語は、激動のなかにいる弟子たちが描かれている場面だと言うことができます。
ある日、夕方になってから、イエスは弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言いました。
夕方になってから、舟を出して、湖を渡ろうと言ったなんて、正気の沙汰じゃありません。そんなことを言い出すほどに、イエスは群衆から離れたかったんでしょうか。
それにしても、弟子たちのなかには漁師が数人います。夜に舟を出すことの危険性を、彼らは十分に知っていたはずです。危険を承知であるにもかかわらず、舟で夜の湖を渡ることを承服したという筋書きは、解せない展開です。
イエスは弟子の言うことなどに耳を貸さない人だったような気もします。イエスがおっしゃるのだから、としかたなく弟子たちは舟を出したんでしょうか。イエスは、安定とか不安定とかを考えずに行動する人だったとさえ感じます。
暗闇の中を舟で脱出するようなシチュエーションのドラマでは、このような映像を見かけることもあります。けれども、それほどの緊急性がなかったならば、押し留めるべきだったでしょう。正気の人がやることじゃありません。。
鵜飼の舟は松明を点けて夜の川に乗り出しますけれども、広い湖を渡る、となると状況はまるで違います。対岸が見えないようでは、どうしようもないことぐらい誰にでも判るはずです。
現代のようなサーチライトもありませんし、対岸に街の灯りも見えなかったでしょう。
そんな状況で、舟に乗っている弟子たち、というのは、まさに、先の見えない、不安定なぼくたちを代表しているのかも知れません。
さらに間の悪いことに、激しい突風が吹いてきたんだそうです。舟は波をかぶり、水浸しになるような始末になったようです。
そのときの、弟子たちの慌てようなど、船上で起こっていることの描写は、映画を見ている時のように、第三者的に眺めるだけならば、おもしろいかもしれません。なにしろ、弟子たちの慌てようとは対照的に、イエスは船尾で眠っていたんですから、この対照は滑稽(こっけい)です。
風と波を恐れて、慌てていた弟子たちは、「こんな状況になっているのに、何とも思わないんですか。ぼくらが死んでもいいと思っているんですか」と言って、イエスを起こしました。
気持ちよく寝ていたところを起こされたからでしょうか、「なにをあたふたしとるんか」と言ったかと思うと、風と波を叱りつけたんだそうです。すると、風と波はすっかりおとなしくなった、といいます。こんな描写も、映像にすると面白いと思います。だからでしょう、この場面を強調して、イエス様は風や波を従わせることさえできるほどの、力をもっておられるんだ、と説教する人も多いです。けれども、この物語を通して、マルコが本当に強調したいことは、そんな安っぽい奇跡的な出来事じゃない、とぼくは思います。
【マルコ福音書の弟子たち】
ここで、あらためて、マルコ福音書に登場する弟子たちの役柄を考えてみましょう。
物語の出演者には、みんなどういう人を演じるか、という役柄があるもんです。
福音書と言えども、登場人物に役柄が設定されていると考えられます。
マルコ福音書に特徴的なことは、ペトロを筆頭に、弟子たちは、まるでイエスに叱られるために登場させられる役柄だということです。
今日の物語の直前には、イエスは、ご自分の弟子たちには「たとえ」じゃなくて、ひそかにすべてを説明なさった、と書かれています。つまり弟子たちは特別待遇で、イエスから少数精鋭の授業を受けたようなものなんです。そうであるにもかかわらず、「なぜ怖がっているのか。まだ信じないのか」と叱られているんです。
五千人に五つのパン(六章三十八節〜四十四節)を、四千人に七つのパンを配った(八章五節〜九節)、という出来事の後で、「ファリサイ派の人々のパン種と、ヘロデのパン種によく気をつけなさい」とイエスがおっしゃった時に、弟子たちはパンを舟に積み忘れたということに気づいて、喧嘩になったこともあったようです。
イエスは、「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだわからないのか。悟らないのか。心が頑(かたく)なになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。」「わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパン屑でいっぱいになった籠は、いくつあったか」「七つのパンを四千人に裂いた時、集めたパン屑でいっぱいになった籠はいくつあったか」と、弟子を嗜(たしな)めて「まだ悟らないのか」と叱ったというか、嘆いた様子が描かれております。
どうですか、かなりひどい表現ですよね。不自然に感じるほど、最大級の侮辱と言っていいほどの言葉をイエスが弟子たちにぶつけているのは、これほどの批判を浴びせられる役柄として、マルコは弟子たちを登場させているからでしょう。
教会の中では、一般的に弟子たちを讃美することも多いと思います。ところが、マルコ福音書では、弟子たちに対する取り扱いが、ぜんぜん違います。弟子たちに当たりがきつい、ということを判っていただけたでしょう。
【マルコが弟子批判する背景】
多くの学者が考えているように、マルコが福音書を書いたのが西暦七十年頃だといたしますと、イエスが十字架で殺害された事件から、四十年ほど経っていることになります。また、新約聖書の中で最も著作年代の早いパウロの手紙が、五十年代ですが、そのころすでに、エルサレムの教会と弟子たちは、大きな権力を持っていたことがうかがえます。それからさらに二十年後となれば、当然、使徒と呼ばれたイエスの直弟子とその後継者が、教会の重鎮になっていたと思われます。もっとも、なぜかイエスの血縁者であった弟ヤコブが、ペトロを差し置いて、教会の頭になっていたようであります。いずれにせよ、教会の重鎮として権力を持っていた弟子たちを、イエスの口から放たれた言葉を通してではありますが、ここまで批判するのは、ちょっと勇気のいることであったはずです。そうであるにもかかわらず。ここまで弟子たちを扱(こ)き下ろしたのは、弟子たちを中心に組織立てられている教会を批判したかったからだろうとぼくは考えております。マルコは、弟子たちとその背景にある教会を批判するために、自分の福音書を書いたんだ、と考えてマルコ福音書を読めば、マルコの表現の多くに合点がゆくようになるはずです。
風と波に翻弄(ほんろう)される舟の上で、あわてふためく元漁師(舟の専門家)たちを尻目に、風と波を鎮めた奇跡が重要なんじゃなくて、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」とイエスが弟子たちを叱ったことが、マルコが本当に言いたかったことのはずです。「怖がってもしょうがない。おどおど、ジタバタするなよ。もうちょっと信頼というか安心せいよ!」てなもんです。「風と波を叱った」なんてどうでもいいことです。弟子たちを叱ったイエスの言葉が重要なんです。
【ぼくたちは】
船頭がジタバタしていたんでは話にならないんです。多くの教会の現状と同じでしょう。ここはお前がどんと構えていろよ、と言われているようにぼくは感じます。イエス様なんとかして下さい、って言っている場合じゃなくて、お前がなんとか持ち堪えろよということです。
自然相手じゃどうしようもないから、どんと構えて安心しておれって言う程度でいいんじゃないでしょうか。イエスの言葉には武士道を感じます。いのちの危険に際しても、ジタバタせずに、おおらかな信頼感を持って、平然と出来事に立ち向かうことが、翻弄されないために必要なことです。
ぼくたちは、イエスのような信念をもって、新しい年を迎えましょう。