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「イエスは概念の神に囚われていない」20200223
「イエスは概念の神に囚われていない」2020年2月23日
聖書 創世記 二章七節~九節、四章一節〜十六節
あなたを慰め、喜ばせ、安心させる言葉は何か、と考えながら、あなたに「幸せ」になってほしくて、ぼくは説教を作っています。と言いますのも、あなたが、不安で、悲しんで、不幸だと思い、慰められたいと感じているように、見えるからです。
特に人間関係で悩んでおられることがあるんじゃないかと思います。
【関係が重要です】
ぼくたちは、関係の中で生きています。命も生活も、人間関係なしにはあり得ません。
人間も他の生物も、宇宙の一部ですから、当然のこと、大自然との関わりの中で生きています。
宇宙という大自然の、様々な物の関わりの中で生物が誕生したんですから、自然が人間を作った、とも言えるでしょう。
すべての物事との関係状態から、大きい影響を受けながら、ぼくたちは生きています。関係が拗(こじ)れていると、うまく生きられません。関係は命を生む根源でさえあります。仏教で縁起(えんぎ)と云われるものは、この関係かもしれません。
【風に逆らい得る人間】
近頃では、自然以外のもので、人間社会に影響を与える人工知能が出現しましたけれども、大昔から、人類は自然界に影響をあたえてきました。
川に流れる水が石を砕き土砂を運ぶように自然に任せるのではなく、現代人は、自分が思い描いたように川の流れを変えるなど、自由意志で、自然に働きかけるようになりました。生物が生まれてから、生物自身が、周りの環境に影響を与えるようになりました。
壮大な宇宙からみれば人間の関与など、微々たるものでしかありませんが、自然の成り行きに任せたままにしない、ということは、自然に対する大きな挑戦である、と言えるでしょう。
生物が自然の一部であることに変わりはありません。しかし、生物は、自然のただの一部ではなくて自然の流れに自由意志によって抵抗する分子です。
自然の流れに従わず、自由意志によって風に向かってさえ、進むことができる存在は、生物誕生以前にはなかったはずです。
【自然の力を「神」と名づけた】
自由意志によって自然に抵抗できますけれども、人間の力は微力です。自然に任せなければならないことばかりです。
太陽によって大きな影響を受けるしかなかった人類は、太陽に向かって願いを告げるしかなかったに違いありません。「信仰心」というものは、そのようにして芽生えたんだろう、と想像できます。
そのような自然との関係を視覚化するために、大自然を擬人化して、「神」と名付け、神との関係のあり方を組織化したものが宗教である、と思います。神から恵みを受けて、被害を最小限にとどめるために、神に逆らわない生き方を探り、教えようとした人が宗教家になったんでしょう。
【神は人を創造された?神は人に創造された】
しかし、どのようにしようが、自然が人間の思うようにならないことは明らかです。そこで、思い通りにならないことを説明するために考え出された概念が、神に対する人間の「罪」、じゃないでしょうか。
神に対する罪があるから、人間には災いが降りかかるのだ、と宗教家たちは説明しています。
ですから、創世記のはじめに、神は人を創造なさった(「創造された」は変な尊敬語です)、と書かれていますけれども、そうではなくて、時系列は全く逆で、人間が、壮大な自然を擬人化した「神」を創造したに違いありません。
【罪と呼ぶ人間の関係】
人間と擬人化された神との拗(こじ)れた関係を宗教家は「罪」という言葉で表現したんです。
このような表現が採用された背景には、まず、人と人の拗れた関係を「罪」と呼んでいた現実があったんでしょう。その構図を、人間と概念の神との関係に投影しただけだ、とぼくには思えます。
多くの人が勘違いしているんですが、驚くことに、善悪を知る木の実を食べるな、という神の命令に背いてアダムとエバが禁断の木の実を食べた物語には、「罪」という言葉は使われていません。この出来事によって「罪」が人類に入り込んだと説明され、これが「原罪」だと教えられてきました。けれども、そのような説明は、この物語にありません。
旧約聖書物語では、「罪」という言葉は、「カインと弟アベルの物語」に初めて登場するんです。
すなわち、「罪」は元来は、人と人の拗(こじ)れた関係状態を表現する言葉にすぎません。
【ストレスについて】
カインは、弟アベルと比較して、弟を高く、自分を低く評価して、弟に勝てない、と勝手に思い込んでしまった人です。
現代人が多くのストレスを抱えているように、カインは、弟にストレスを感じていたんでしょう。
あなたのストレスは何ですか。気に入らない相手を、ストレスだと考えているかもしれませんが、それは違います。ストレスは、感情です。
何かを基準にして、相手と自分を比較評価した結果、あなたが抱いてしまった感情がストレスです。
相手がいなくなれば、ストレスがなくなったと感じるでしょう。しかし、それは一時的なことにすぎません。すぐに、あなたは、違う相手にストレスを感じるようになるはずです。ですから、気に入らない相手を抹殺してもストレスは無くなりません。
あなたは、ストレスをなくすために、相手を抹殺するほどの大きな犠牲を払う必要はないんです。ただ、相手と自分を比較したり、相手を評価しなければいいだけです。
他人を評価しないでいることなどできない、と思うかもしれませんが、そう難しいことでもありません。
異なる相手との違いを評価することなど誰にもできないんです。そうであるにも関わらず、評価できるように勘違いしているのは、宗教が人を裁く神を介入させたように、そこに第三者の介入を許すからです。考えてください。神の意志を確認できる人など誰もいないじゃありませんか。だから、確認するすべもない神の評価を気にしても意味ありません。あなたと相手との関係に第三者を入り込ませてはいけないんです。あなたと相手は、比べられない存在だからです。
神を登場させるから、神の評価を気にするようになっただけです。そして、神の評価を受けられなかった、と錯覚した自分には、神に対する罪があるからだ、と埋め込まれているだけです。
関係ない神を引き込んではなりません。罪とは神との拗(こじ)れた関係じゃなくて、人間同士の拗れた関係をあらわす言葉でしかないんです。
【人間に罪の関係はある】
人間同士の拗れた関係を「罪」と表現するのであれば、確かに罪はあります。しかし、罪とは、個人的な所有物じゃなくて、あくまでも、他者との拗れた人間関係のことです。神との拗れた関係じゃありません。神に対する罪がある、というのは宗教者たちの教えにすぎません。神に対する罪が現実にあるわけじゃないんです。
神と呼ぶ大自然に影響を与え得るほど大きな罪を、小さな人間が犯せるはずない、ということぐらい、ちょっと考えれば判るはずです。
ぼくたちの自由意志が最も大きな影響を与える相手は、ぼくたちと同じ人間です。ぼくたちの自由意志が神に被害を与えたり、その結果として、神を怒らせることなど、あり得ないと思いませんか。
神への罪を並べ立てるのは、宗教者の常套手段です。そんなことで、あなたの自由意志を奪われちゃなりません。
【比べる文化から逃げなさい】
カインは弟アベルを、殺してしまいました。理由は嫉妬(しっと)したからです。嫉妬は二人の現実生活には何の関係もありません。神から高い評価を受けられなかった、と感じた兄の思いこみから来ていることにすぎません。無駄なことです。
無駄な殺生を招いたのが、神から低く評価されているという誤解であったならば、神への信仰心など何の救いにもなりません。人を比較するものは、妬みを引き起こし、敵対心を煽るだけです。
人は比べられることに慣らされて来ましたけれども、これからは、比べてはなりません。比べる文化から逃れることをお勧めします。
しかし、物語のカインは、尚も他人の目を恐れていました。自分の勘違いから弟を殺してしまったカインは、尚も神の目を恐れ、両親の目を逃れて、追われるように、自分の生活圏から逃げ出します。
その時も、いく先々で命を狙われることを恐れていたカインは、人目を気にしていたんです。
罪の関係を収束させることができす、殺人という犯罪まで犯してしまったカインは、何を恐れていたんでしょうか。カインの子孫になることを、宗教者たちは人々に恐れさせているだけのように感じます。
カインが起こしたような事件は、今も日々、あちこちで起こっています。これほどに拗れた罪の関係が、事件を起こし続けているのは、人を評価し差別することが、今も平気で行われている結果です。
世間の評価や概念の神の評価が、これほど広まっている以上、簡単になくせないでしょう。そうであるならば、自己防衛の手段として、他者の評価を気にしない自分を育てるしかないと思います。
【イエスは差別を受け入れなかった】
ある安息日に、故郷ナザレの礼拝堂で教え始めたイエスを見た人々は、「こいつは、こんなことを、どこで学んだというんだ。知恵や奇跡はどういうことか。こいつは大工じゃないか。マリアの息子でヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟じゃないか。姉妹たちはここで一緒に住んでいるじゃないか」(マルコ六章二節〜三節)とイエスを低く評価しました。しかし、イエスは、そんな差別に押しつぶされませんでした。その後もイエスは、自分の信じた道を邁進します。
イエスは、奇跡にも教えにも、神の名を利用しませんでした。宗教者たちが教えた神による差別から、被差別者を解放する福音を伝え歩きました。神の名も出さずに、ただ「あなたの罪は赦された」などと言ったのは、宗教者たちが教えた概念の神を否定していたからだと思います。
罪の関係を作る比較を、イエスは許しませんでした。それがイエスの生き方であり、人を救うイエスの福音の示し方だと思います。
【ぼくたちは】
ぼくたちが、イエスの名を掲げる教会であるならば、人に罪を押し付けてはなりません。概念の神に対する罪など認めず、概念の罪に囚われている人を、そこから解放する福音を宣言することが、ぼくたちの教会の役目であると考えています。
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