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「狂人が救う」20211205
「狂人が救う」20211205
聖書 マタイ福音書 一章十八節〜二十一節
結構ぼくたちはボケーっと時間を過ごしていますけれども、そういう時間は簡単に手に入るものではありません。さまざまな状況が揃っていなければ、ボケーっとなどしておれないはずです。望んでいることがなかなか起きない、返って喜べないことがしょっちゅう起きると考えている人も多いようですが、望んでないことが起きるのが多くの生物が出会う現状です。平凡だと思ったり、当たり前のように感じている生活は、実は、さまざまなことが奇跡的に連結しているからこそできているのだ、ともっと自覚すべきです。
あなた一人の脳内で考えたことしか起こらないとすれば、つまらないと思いますよ。考えもしなかったことが起きる現実があるからこそ不安もありますがおもしろいんじゃないでしょうか。
確かに、望んでいない出来事が起きて苦しむのは嫌なもんです。そんな嫌な出来事を事件と呼ぶんでしょう。事件は誰にも起こり得ます。
【マリアの事件】
マリアという名の乙女(おとめ・未婚の女)に事件が起きました。未婚であるにも関わらず身重になったのです。今では珍しくありません。けれども当時の社会では許されないことです。しかもマリアはヨセフの許嫁(いいなずけ)であったにも関わらず、お腹の子がヨセフの子でないことがはっきりしていたのです。めちゃめちゃ複雑でした。マリアの事件は、婚約者ヨセフにも波及していたのです。しかし、ヨセフに直接の責任はありません。だからヨセフは縁を切って、関わりを絶とうと考えました。この方法がヨセフにとっては最も安全で、社会的にも認められた手段です。
マリアを糾弾することはできますが、そんな事をすれば、マリアの事件に関わらざるを得ません。ですから、そうならないために、全ての関わりを断ち切ってしまうことが傷を最小限に留める方法でした。聖書には「ヨセフは正しい人であったので、マリアの罪を咎めずに、ひそかに離縁しようと決心した」と書かれておりますけれどもそうは思えません。
とにかく、この事件報告から、判ることは、マリアが事件に遭ったのは隠せない事実だったということぐらいです。
【事実】
聞いても理解できない部分は後にして、とりあえず事実だけを追ってみますと、予想に反してヨセフはマリアを妻にしました。これが事実です。なぜそんな事をしたのかの説明は事実じゃありません。
天使が現れて「マリアを妻にしなさい」と言ったからヨセフはそうしたのだと言えば、話の筋書きとしては通りますけれども、まったく確認不可能な奇跡を持ち込まれても納得できません。
奇跡を除いて事実だけを見れば、ヨセフがマリアを妻に迎えた理由は判りません。
【ヨセフの反応】
ヨセフがマリアに対して、優しい態度を取ったことは確かです。
マリアの状況を知った上でマリアを妻にしたヨセフのような人は全くないわけじゃありませんが少ないでしょう。それが世間的に正しいかどうかは別問題です。とにかく、マリアのこれからの生活を守ってあげることができたのはヨセフだけだと判っていたから妻にしたんでしょう。
たとえそうだとしても、この判断は、ヨセフにとって大きな不利益をもたらしました。マリアを襲う被害をヨセフ自身もマリアと共に受けることになったからです。
【マリアのために旅立ったヨセフ】
今日も事実だけを見ましょう。ヨセフは身重のマリアを連れて故郷から旅立たなければならなかったのです。
二人が旅立ったのは、人口調査のためであったと説明されておりますけれども、その言葉通りであったかは定かじゃありません。
判っている事実は、二人が故郷を出たことだけです。身重のマリアを連れて故郷を離れるなんて尋常じゃありません。故郷で出産するのがあたりまえです。ですから、故郷にいることができなくなった、というのが事実だと思います。
故郷を出ることでヨセフがマリアの出産を守ったんだとすれば、このようにマリアを守ることができるのは、ヨセフだけだったからだと判ります。マリアとお腹の子を守るためにヨセフはマリアの苦悩を一緒に引き受けたということだとぼくは思います。
そこまでする義務はヨセフにありません。そうであるにもかかわらず、それを承知の上で、ヨセフは行動したんでしょう。
世の中の正義を守る人ではなくて、世間からの裁きをうける弱い立場のマリアを守ったヨセフだからこそ、世間体には正しくなくとも、ヨセフは正しい人と呼ばれているのだと思います。
ここまでするヨセフを馬鹿者だとか気が狂っている、と考える人は多いんじゃないでしょうか。聖書物語の登場人物であるヨセフに対して奇人変人扱いする人はいないかもしれませんが、身近な出来事に置き換えたら判るように、ヨセフの行動は異常に映るはずです。
律法を超える福音を人々に説き始めたイエスを、イエスの身内が気狂い扱いしたように、ヨセフの身内もきっとヨセフは気が狂ったと思ったでしょう。ヨセフ自身もそこまでする事を、周りの人々にうまく説明できなかったはずです。
【現実の救い】
マリアを襲った事件の実際は判りませんが、事件に遭ったマリアを救うためには、マリアの事件をヨセフも引き受けるしかなかったということです。このヨセフの振る舞いを見て、人を助けるということは、こういうことなのだと今回初めて気がつきました。実際に何が起きたのか判らないままで、事件の結果だけを引き受けるということが、いかに大切なことかを知らされました。
この出来事以外に、ヨセフについて判ることはほとんどありません。しかし、一人でマリアを故郷から連れ出したように、ヨセフは優しさだけでなく明確な判断力と実行力を兼ね備えた人だったように思います。
ヨセフはイエスに血を分けた父親ではありません。しかし育ての父になったヨセフの優しさは、しっかりとイエスに受け継がれたように思います。
イエスは、強い立場に立ったままで弱い人に手を差し伸べたのではなくて、手を差し伸べることによって弱い人々の苦しみを一緒に担う人となったのです。ここに救いがあります。
世界を分断している現代の感染症は、イエスの時代のライ病と同じです。イエスは病人に手を差し伸べて、自分が病人扱いされる者になることで病人を救いました。イエスの行いは、マリアと共に故郷を離れて狂っていると思われたヨセフの息子にふさわしい行いだと感じます。
【ぼくたちは】
実際に弱い人を救ったのは狂人であって、けっして正しい人でも強い人でもありませんでした。これが事実です。そうであるからこそ、救いはぼくらに縁のないことではなくて、実現可能なことだと判ります。これが救いなのです。