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「自分が悪いと思わないでね」20200830

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「自分が悪いと思わないでね」20200830

 

聖書 創世記 二章十五節〜十七節

 

 巷(ちまた)は、勘違いさせる作られた情報溢れています。新聞、テレビ、折り込みチラシ、ネットによる売り込みなど、誇大広告や嘘ばっかりで、クズのような情報も、だけ昔よりも格段に多くなっていると感じます

 文字という記録媒体が出来てからは、多くの情報を伝えることができるようになりました。この技術をいち早く導入する事ができたのは、もちろん、現代と同じように、権力や財力を持っていた人々です。権力者と結びついていた宗教は新技術を、最初に取り入れた団体だったろうと思います。

 聖書というのは、今では古いものだと考えている人が多いと思います。しかし、書かれた頃は、最先端の技能者によって、最先端の技術を使って造られた物だったんです。宗教者たちが伝えた情報を纏めた科学の結晶のようなものが聖書だったんです。天から降って来た神聖な書物ではありません。

 聖書、現在の形に纏ったのは、さほど昔ではありませんが、聖書に収められている記録や物語の断片には、かなり古いものります。

 中でモーセの十戒と呼ばれている法律は、かなり古いものです。しかし、旧約聖書の最初に置かれている創世記は、取り扱っている内容は、天地創造ですから、最も太古の歴史を描いているので、古いように感じますけれども、何しろ誰にも確かめられない内容ですから、宗教組織がかなり確立してから纏めあげられた物でしょう。紀元前一世紀ごろだろうと推測しています。

 救いの原点になった出来事を描いた出エジプト記の著作年代の方が早いと思います。何しろ、エジプトで奴隷にされていた一団がエジプトの圧政から逃げ出すことができたという確かな出来事に由来しているのですから成立年代は早いと思っています。もちろん、出エジプト記の中にもたくさんの神話が盛り込まれていることは確かです。

 

二つの創造神話】

 さて、創世記の初めに、天地創造物語が二つ連続して書かれています。一つ目は、神は「我々にかたどり、我々に似せて、人を造り・・・全てを支配させよう。と言って、神(エロヒーム)は男と女を想像した、と人間の創造さえ、さりげなく描かれております。そして六日間で天地を創造した神様は、七日目に休んだんだそうです。

 これに続いて、二章四節には「これが天地創造の由来である」と書かれています。実はここから、別の、二つ目の創造物語が始まっているんです。ここからは人に焦点が当てられております。

 主なる(ヤハヴェ)が土から人を形作り、命の息を鼻に吹き入れたので、人は生きるものになった、と述べられています。その後、エデンの園を作って、人に管理させることにした後で、男の助け手として女を作った、と書かれています。この物語の神様は、とにかく、人間に深く介入して来ます。初めの創造物語とは全然異なる視点で書き上げられた神語だということがわかっていただけたでしょう。

 この二番目の物語の中で、出演者の関係が拗(こじ)れてしまうんですが、それは神様が人に介入しすぎるからだ、と感じます。神様は、創造主と被造物という明確な上下関係の下で命令します。反論の余地のない押し付けです。まあ命令というものはそんなものです。

 園に成る実はどれ食べていいけれども、中央の木の実だけは食べるな神話の神は人に命令しました。関係が拗れてしまうが初めから予想できそうな状況を神様自信が作ったんです。正直なところ、試しているように思います。

 触られたくないほど大切なものならば、そんなに目立つところに置くなよ、と突っ込みたくなります。

 しかも美味しそうな実がついていたらしいので、蛇の誘惑に乗せられた女が、まずこの実を食べ、女に誘われても食べてしまった、ということです。

 命令違反の結果、男と女はエデンの園を追い出されて、エデンの東で、苦労して作物を育てなきゃならなくなったんだ、と神話は教えています。

 

【アダムは人類の代表じゃない】

 この情報を真に受けて、人間は生まれながらに、神様の命令に従わない罪人なんだ、と教える宗教家が多いのですが、さっきから、いろいろ突っ込んでいるように、ぼくには腑に落ちません。物語の表面を薄っぺらに読めば、そんなことに成るのかもしれませんが、著者が本当に言いたいことは別にあるような気がします。

 最初の人アダム全人類の祖先であり全人類の代表なんだから、アダムが犯した罪のために全人類が罪人になったのだと結論づけることに無理がある と思います。先祖の罪のために子孫が苦しまなければならないなんてケチな宗教家の言いがかりです。

 著者はそんなことを知らせたくてこの物語を書いたのではないだろう、とぼくは考えました。

 アダムが全人類の罪人の代表だ、という考え方が、もしも大きな勘違いだったとすれば、どうなるでしょうか。原罪という考え方を土台から崩すことができるかもしれません。

 

【善悪の知識の木の実を食べるな】

 アダム神話のように、きれいにめられた神話なんてものは、組織化された国家宗教によってりあげられたものだと思います。いわゆるユダヤ教組織化して国家宗教にしたのは、ソロモンだと思いますから、これほど壮大な神話は、ソロモンが書かせたに違いありません。ソロモンは宗教で人心を押さえておくために、全ての人を罪人にするための神話を作らせたんでしょう。

 しかし、そんな目的で物語を書かされた学者たちの中には、神の名を利用するソロモンの強行政治に反発を感じた人もいるはずです。彼らは、ソロモンの願い通りのソロモンを讃(たた)える神話の中に、よく読みこまなくては判らないような仕方で、ソロモンに対する批判を巧みに書き込んだんだろう、と想像しています。そんなことをしたのか、という理由は、ソロモンという人を見れば理解できるでしょう。

 

【ソロモン王について】

 ソロモンは、ずる賢いバト・シェバという母に助けられて、異母兄弟との王権争いに勝ったんです。ダビデぬのを待って、北に勢力を持っていた異母兄弟の兄を殺すことによって、国の北部イスラエルを南部ユダに統合して統一王国にしました。

 ソロモンはずる賢い人であったことは確かです。ソロモンが盛大に千頭もの焼尽すささげものをした夜に、主が夢枕に立って「何でもいいから願うものを与えよう」とおっしゃったので「あなたの民を正しく裁き、善と悪と判断することができるように、この僕(しもべ)に、聞き分ける心をお与えください」(同三章九節)と言ったということです。

 長寿も富も、敵の命をも求めずに、「(民の」訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた」(同 十一節)ということを、主が喜んで、「知恵に満ちた賢明な心を」賜ったということになっております。

 その知恵を証明する「ソロモン裁き」の逸話(いつわ・・・エピソード)挿入されております。全部王を称えるための神話です。

 

ソロモンのずる賢さ

 王になったソロモンは神から頂いた知恵を発揮したと言いたいんでしょう。族長がそれぞれの部族を治めていた十二部族連合を解体して、国を十県に分けて、知事を自分任命し(同四章七節)中央集権化しましたそして、効率よく年貢を取り立て、軍隊を増強しています。それから、神殿建築に乗り出したんですが、現代でいう公共工事を増やしたんです。それによって、確かに、民衆も経済的に豊かになり、治安も安定し、平和に暮らせるようになったと書かれていますけれども、年貢だけではなくて、労役も課せられるようになったため、民衆は忙しく働かなくてはいけなくなったはずです。

 七年を費やした神殿建築が済むと、調子に乗ったソロモンは自分の王宮を十三年も費やして造ったんです。それはさて置き、神殿建築が終わると、盛大な記念祭を行いますが、祭司を差し置いて、自分で神殿奉献の祈りをしています。王をいさめる預言者のような存在を無くし、自分が経済界と宗教界を合わせた全ての頂点に立ったです。

 ソロモンは、自分の思いを遂(と)げるために、他人を殺し、奴隷にし、権力者となって誰にも文句を言わせないように、全てのことを自分の都合に合わせてやったわけです。そうして自分だけが楽しめるような社会構造を組織したです

 戦争で生き残った敵の捕虜を奴隷にして苦役に服させ(同九章二十節)、自分は象牙で造らせた椅子に更に金を被せた王座(同十章十八節)に座って、金の杯で酒を飲み、七百人の王妃と三百人の側室(同十一章三節)を侍(はべ)らせていたんです。

 自分に都合がいいを善とし、都合悪いを悪とし、勝手な判断を他人に押しつけ命令に従わない人に罪人レッテルを付けんですつまり、ソロモンは神に成り代わって善悪の判断をしたんです。

 

善悪の木の実を食べるなという意味

 さて、初めに読んだアダム神話に戻りましょう。そこには、「善悪の知識の木(善悪を知る木、善悪を判断する木)からとって食べるな。触ってもいけないと書いてありました。これは、善悪の判断人が手を出してはならないということです。そうであるにもかかわらず、人間がやっちゃならないことを、実際にやってしまったのはソロモンです。

 善悪の判断に手を出してしまったソロモンをこの神話は批判しているんだと思います。そうだとすれば、アダムは全人類を代表しているんじゃなくて、ソロモンを指しているんだと思います。

 アダム神話は全人類罪に定めるために書かれたんじゃなくて、一人の人物を痛烈に批判するために書かれたんだと考えられます。

 ですから、この神話は最初の人が神の命令に背いたから、全人類が神に対する罪人なんだ、などということを教えているんじゃありません。全人類が罪人だ、というのは、全くの勘違いです。そうではなくて、だれも、ソロモンのように、神に成り代わって、他人を断罪しちゃいけない、というのが善悪の木の実を食べるという意味です。

 

ぼくたち

 マルコ福音書のイエスは、全人類が神に対する罪人だなどと言いません。他人から罪人と判断された人たちに赦しを宣言し、無罪放免を宣言し自由に交際しました。神話の神を登場させ、その神に断罪させているのは人です。イエスは人が断罪することを認めていません。ただ受け入れられていることを伝えました。

 出来事に対しても、人に対しても何が正しいか間違っているか、などと、あたかも神のようになって判断しちゃならないということです。もう一つとても重要なことを言っておきます。それは、あなたもよくすることですが自分の善悪を自分で判断することも止めましょう。あなたは神のようになっちゃダメです。ただ愛されていることを認めましょう。

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