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「呪縛(じゅばく)を解(と)く」20200802
「呪縛(じゅばく)を解(と)く」20200802
聖書 マルコ 二章 七節
先週は「私は穢れ(けがれ)者です」と思い込んでいる人が、イエスから「清くなれ」と言ってもらって社会集団に戻してもらった、という物語を聴いていただきました。
今日は重い病人に「君の罪は赦される」とおっしゃったイエスのお人語りを聴いていただきます。
【罪について】
「罪の赦し」という言葉が出て来ますから、まず「罪」という言葉を確認しておきましょう。
一般的には、命令に従わないこと、法律を守らないことなどが「罪」と呼ばれます。それらの一つ一つが罪ですから、律法違反の罪というのは、一つ一つ丹念に対処していかなければなりません。ということは簡単には終われません。解決するどころか、増えてくるでしょう。
罪が多くなると、重い病になったり、大きな災害に遭うなどと説明されることもあります。
また、具体例を揚げられなくても、心が綺麗だとか穢れているというように、抽象的な事柄にまで展開させられますと、逃げ道がありません。
【神だけという呪縛】
罪に対するこのような考え方を生み出し、支えている基礎になる考え方はどんなものでしょうか。それを判っていただきたくて、今日の聖書箇所を司会者に朗読していただきました。短い言葉ですから、もう一度読みます。「神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」(マルコ二章七節)
これは、イエスの仕草に反発したユダヤ教の指導者たちの言葉です。「罪を赦すことができるのは神だけである。神以外にはできない。」ということを当たり前だと考えています。当然、「人間には罪がある。」ということを自明のこととしています。
一般的に法律に従わない行為を「罪」と言うんですが、その法律を決めたりそれに従うように命令したのは誰か、という疑問が出て来ていいはずなんですが、宗教はこれまた自明のこととして神を登場させます。
つまり、神が律法を定めてこれに従うようにお命じになった。その神の命令に従わないことが罪である、と教えるわけです。神への不服従が罪なんですから、罪を赦すことができるのは神だけだ、とユダヤ教の指導者たちは考えているということです。
このような論理を完成させるために、神という概念が生み出された、と考えられます。
災や病気や悪がはびこることや死ぬことが、神への不服従という罪の結果だと説明することは簡単だったからでしょう。そしてこれは誰もが陥りやすい考え方ですから、それを利用すれば、ほとんどの人を罪人だと自覚させることができます。
なぜ病気になったり災いに遭うのかという誰もが持つ疑問に対して、罪があるからだと教えられると、抵抗できる人は少ないようです。たとえば、自覚が無くても、知らずに犯している罪があるかもしれないと言えますし、先祖の祟り(たたり)かもしれない、と言うこともできます。
人間、何かしら心に弱みがあるというか、誰にも知られたく無いことが一つや二つあるもんです。そういう心の弱い部分に楔(くさび)を打ち込むように「お前たちは罪人なんだぞ」という言葉を投げかけて突破口を開くのが宗教の戦術です。
ですから、こんな攻撃を受けないように、罪人と呼ばれることに慣れてしまわないように注意しておいてください。
このように、概念の神を登場させ、その神への不服従を罪と決めているのが宗教です。このような論理を決めたのは、神じゃなくて、人間だということを忘れてはなりません。しかも、論理の基礎は不確かで検証できないことだけで作られています。事実が何も無くて空想でしかありません。さらに、そのロジック(理論)は因果応報(結果には必ず原因がある)、言い換えれば、ギブアンドテイクという商売の思想で塗り固められています。商売のロジックだから、罪は償わなければならないものだということになっているに違いありません。
このように、「誰もが神に対する罪人である」という前提には、事実の基礎がありません。宗教の教えは、実在しないものを積み上げた虚構に過ぎない、ということを確認しておいてください。
そうであるにもかかわらず、多くの人は、なぜか、宗教の呪縛にかかって、自分を失くしてしまいます。これをなんとか解決したいんですが、宗教は手強いもんです。
少なくともみなさんだけは、「神への不服従という罪なんか存在しない」ということを、しっかりと頭に叩き込んでもらいたいもんです。
【数え上げることができない罪】
さて、旧約聖書が示す、律法への違反は数えることができる罪であったのに対して、数えられない「罪」という概念がありますので、数えられない「罪」の話をします。
数えられない罪ですから、この場合、罪に実体はありません。悪化した関係、すなわち気持ちがすれ違ったような関係状態を言い表す言葉が「罪」です。
聖書に出て来る重要な言葉は、関係を表現する場合が多いんです。たとえば、男と女が受け入れあっている状態を、表現するなら「愛」です。これに対していがみ合っている関係状態を言い表すなら「罪」ということになります。そう考えていただければ判りやすいんじゃないでしょうか。
このように考えていただければ、この「罪」は一つ二つと数え上げることができないものだということがわかっていただけるでしょう。
ぼくの言いたいことと完全に一致しているかどうかは判りませんが、パウロは、自分の言葉で語る時には単数形の「罪」という言葉を使っております。このような単数形の罪が関係状態を表す言葉であるならば、律法違反の罪のように一つ一つの案件を個別に解決しなくても、関係を回復することによって、一挙にぜんぶを解決することができると思います。
いがみ合う関係状態が、受け入れあう関係状態に変われば、全ては一気に解決してしまうんです。
【自然法則を無視する奇跡は無い】
清くする、病気を治す、罪を赦す、障害者を癒す、このようなことをイエスはなさった、と書かれていました。けれども、イエスであっても、全てを自然法則に逆らっておこなうことはできません。ですから、イエスといえども、たちどころに病気を治せたとか、障害を取り除けたはずはありません。そんな記述は現実と関係のない神話(フィクション)です。
現実に、信仰によって奇跡が起こり、大きい障害が取り除かれるのであれば、同じようなことが現代にも起こっていいはずです。しかし、信仰深かった義母さんも回復しませんでした。
イエスが地上で活躍なさった昔々には奇跡が起きたんだと言うとしても、やはり、ぼくたちの現実とは関係ありません。昔々の神話に過ぎません。
【現実に起こりうる奇跡】
神話ではなくて、現実に起こり得る奇跡は何かと言えば、先週言いましたように、「私は穢(けが)れている」と信じ込まされていた人に「私は清くされた」とイエスが思わせたことや「私は罪人である」と思い込まされている人に「私の罪は赦された」とイエスが思わせたことです。そのように、人を変化させることは、再現可能な奇跡です。
イエスがなさった奇跡の大事な点は、人類の長い歴史の中で、そして今もなお、ぼくたちにも関係のある、再現可能な奇跡をなさったことです。
神話じゃなくて、現実の出来事にすることが大切なのだと思います。そういうことができれば、囚われている人は解放され、凝り固まっている状況から救い出されるんだと思います。
現実が突然変わらなくても変えられなくても、人の考え方が変わるという奇跡なら、突然に起こり得ます。こういうことを目的にするならば、ぼくたちも関わることができます。そしてそういう変化は誰にも必要だと思います。だから、関わっていきたい、というのがぼくの気持ちです。
身体を癒してもらった、病気を治してもらった、という奇跡に注目する人が多いですけれども、ぼくは、あり得ない奇跡に目を奪われないで、人の心が変わるという、実現可能な奇跡だけを、見ていきたいんです。
奇跡というのは、文字通り、難しいと思えることが実現することですが、人の心が変化することなら、可能性のあることです。わずかの可能性であっても、ぼくはそれにかけていこうと思います。。
【罪の呪縛を解かれる】
しかし、呪縛(じゅばく・まじないをかけて動けなくすること、心理的に自由をうばうこと)にかかっている人が多いというのが現状です。多いというよりも、ほとんどの人がそういう状態にあると言えるでしょう。そんなことないよ、と思っている人も多いと思いますけれども、それこそが呪縛にかかっている証拠であるように思えます。
自分を見ることは難しいので、ちょっと外に目を向けて、北朝鮮を考えてみましょう。国の内実を全然知りませんけれども、将軍様に楯突くことはできない、ということは想像に難くありません。その隣国でも、同様に、首相に楯突くことはできません。独裁政治では政治システムの名称がどうであろうと、トップに逆らうことはできません。そういう国では、発言も自由にできません。
また、国家元首が最高の存在だと信じ込まされている人々も、実数は判りませんけれども、必ずいるはずです。外から見れば、そんなことがないことは判りますけれども、国民たちは気づいていません。このような状態が、心も体も自由じゃない状態です。
日本は、一党独裁とか、独裁者による政治が行われているわけじゃありません。多くの考え方やイデオロギー(観念体系)、様々な宗教が混在していますから、わたしたちは呪縛なんかされていない、と思うでしょう。しかし、それぞれの生き方が、それぞれが信じているイデオロギーに影響されていることは否めません。
いくつものイデオロギーから、取捨選択して自分なりの生き方を作り上げている人もいるでしょう。しかし、何らかの宗教や思想というイデオロギーに強く影響されている人が多いはずです。
そういうことから自由になっていいんだよ、人は本来自由なんだよ、と教えたのがイエスです。
【ぼくたちは】
「君の罪は赦された」とイエスが語った時に、「人には神に対する罪がる」という前提をイエスは認めていないことは確かです。罪を認めていないのですから、罪を解決するための条件を提示しなかったんです。全く条件無しで罪の赦しを宣言した、これがイエスの福音の最大の特徴です。どんなに些細(ささい)なことであっても、何かの代価や条件を付け加えれば、それはイエスの福音ではなくなります。罪を問題にしないことが、イエスの福音の中心です。ぼくたちはこれだけに集中して、これによって数えられる罪の呪縛からあなたを解放します。