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「エッファタ(開け)」20210627
「エッファタ(開け)」20210627
聖書 マルコ福音書 七章三十一節〜三十七節
口では何も言わなくても、態度に出さなくても、おとなしく反抗する日本人気質が最近のお注射に対する反応にも出ていると思います。この「おとなしい」という言葉を漢字で「大人しい」と書けば、大人びているとか年長者らしいとか、穏やか、すなお、落ち着いているということになるようです。日本人ほど大人しく穏やかな民族はいないんじゃないでしょうか。
日本語変換が得意ではないワードでは「無音しい」と変換することもできます。騒がしくないという意味にとれば、このような当字の方が日本人に合っているかも知れません。対立する意見をもっていても、おとなしく対応するのが日本の文化(民族がつちかってきた生活様式)なのでしょう。
喜怒哀楽(きどあいらく)を感情のままに表現しない人が多いようです。このへんは近隣の国々の人の反応と大きく異なっています。
日本人はめったな事では怒りません。怒(いか)りを、ふんべつなく表現すれば軽蔑されるという風潮が昔はありました。ところが近頃は、大人しくない若者、つまり子どもっぽい若者が増えてきたように思います。
たいして面白くないコントを見て、でかい声で下品に「ギャハー」と笑う人が多いようです。昔の寄席(よせ)の風景を見ると、バカ笑いしている人はいません。このように今は感情を素直に表現する世の中になったように見えますけれども、最近の567騒ぎ以降は、正確な情報はなかなか聞こえてきませんし、自分の意見を堂々と言える人が少なくなったように感じます。
【心の衛生にも敏感になろう】
健康食品が大流行りであることから判りますように、身体の健康に関心が高まっております。一方、心を衛生的に、つまり精神の健康を保つようにすることですけれども、これがなかなか出来ていないようです。
たとえば、台所仕事をしていて、ちょっと切ってしまった、などということになりますと、すぐに手当てなさるでしょう。
すぐに止血して、感染症にかからないように傷テープなどをつけて、傷口がすこし落ち着くまで仕事の手を休ませますよね。こんな傷ぐらい、いちにち経てば治るよって、放っておきはしないでしょう。
ところが、心の傷は放っておかれる場合がおおいのです。誰かの言葉で心が傷付けられても、「くそ」って思いながらも、仕事を続けるなんてことはよくあるんじゃないでしょうか。
台所仕事の怪我にしましても、手元をよく見ていなかったということで自分を責めるんじゃないでしょうか。そうすると心の傷は癒やされるどころか大きくなってしまいます。
人はなぜか、傷ついた心を更に傷つけるという悪い癖を持っているように思います。
「また切ったんか」「よそ見しないで、しっかり手元を見て仕事をしろ、といつも言っているだろう」「何度注意しても同じ失敗をするのは、お前がボケーっと仕事しているからやろ」
こんなふうに言われますと、傷口はどんどん広がるのです。
こんなふうに他人から責められると、更に重大な事態が起こってきます。それは、他人の評価を自分がしっかりと受け入れてしまうことです。
他人の指摘をしっかり受け止めない人も困ったもんですが、批判をそのまま受け止めてしまって、他人の評価にすっかりと押さえ込まれてしまう場合が起こりうるということです。実際にそのような抑圧の中で生活している人のほうが多いのであろうとぼくは考えております。
「お前がボヤボヤしていたからだ」という他人の評価に加えて、自分で自分自身をいやしめてしまうことになったりすれば、傷口は大きくなるだけじゃなくて深くもなります。
そのうちに、他人から言われる前に、自分自身を攻撃するようになります。そうなると傷は癒やされるどころか悪化するんです。
小さな切り傷でもすぐに手当てして治そうとするにもかかわらず。心の傷は癒やされるどころか放っておかれ、傷口が大きく深くなり、周りからの攻撃に弱くなって、そのうちに化膿して取り返しのつかない状態になってしまう。そんなことがよくあると思いませんか。
【傷は小さいうちに癒そう】
幼稚園児の頃だったら、遊び場で転んで膝(ひざ)に擦り傷を作ったりしたときに、先生のもとに行きますと、「あら、ころんだの」「こっちにおいで」って言って、傷口を洗って赤ちんを塗ってくれました。「はい、もうだいじょうぶ。また遊んでおいで」って送り出されると、ちょっとヒリヒリするのを我慢して、遊びを続けたもんです。
「またころんだんか。あほやなあ。しっかり周りを見て走らないからでしょ。あんたは足腰が弱いから転ぶんやわ。その場でスクワット百回しなさい」なんて言われませんでしたよね。
心の傷も同じです。「おもちゃとられたから泣いてるのかな」「独り占めしないで一緒に遊ぼうって言ってみようか」先生も一緒に行ってあげるから「どうすれば仲良く遊べるか、話し合ってみようか」ってな感じで、心の傷も小さなうちに癒されたら、大きい事件に発展することはないと思います。
「あんたが弱いから取られるんや。しょうがないやろ」「いじめられるのが嫌だったら強くなりなさい」なんてことにしていたら安心できる社会は作れません。
むかしいじめられていた子たちが大きくなってから、むかしいじめていたやつらに仕返ししていたのを思い出します。小学生の頃から強いものが弱いものをいじめるのはしょうがない、とおしえられて育ったら、そうなるのも無理ありません。
身体の傷も心の傷も、すぐに手当てすることが重要だということです。
【イエスは聾唖者(ろうあしゃ)を癒した】
さて、今日の聖書物語には、耳も聞こえない口もきけないという人がイエスのもとにつれてこられます。
なぜイエスのもとにつれてこられたんでしょうね。たぶんですよ、わかりませんが、他の誰にもどうしようもなかったからです。あたりまえの治療では治らないことがはっきりしていたから、一般的には考えられないようなことをなさるイエスならなんとかしてくれるかも知れないと思った人々が、この人をイエスのもとに連れてきたんでしょう。イエスを訴える口実を作るためじゃなかったことは確かです。この人の耳を聞こえるようにしてほしいとか、話せるようにしてほしいとか願い出たんじゃなくて、とにかく手を置いてやってください、と願い出たということです。
だれにも相手されないこの人に手を置いてやっていただきたい、というのは、この人を相手にしてやってほしいということです。他の人々と同じように大切にしてあげてほしいということだとぼくは理解しました。
そんなふうにこの人に対応してくれる人はいなかったんでしょう。世の中の偉い人というのは、特にこのような人を相手にしてくれないものです。イエスは他の偉い人々とは違うはずだと感じた人々がこの人をイエスのもとに連れてきたに違いないとぼくは思います。
熱心に願い出た人々の手前じゃないことを理解させるために、イエスはこの人を群衆から離して一対一で対応なさいました。
この人とイエスだけになったのなら、イエスが何をなさったのか判らないはずですが、耳の穴に指を入れたとか、唾を舌につけたと書かれております。これらに直接的な医療効果があるとは思えませんが、男の心を解かす効果は十分あったのでしょう。そして「エッファタ」(開け)とイエスがおっしゃると、男の耳は聞こえるようになり、舌の絡(もつ)れも解けて、普通に話せるようになったということです。
このような奇跡が絵物語のように起こったとは思いませんけれども、とにかくこの人が聞こえるようになり、話せるようになったのは事実でしょう。孤独な人も誰かに認められたら、それほど変われるということです。
イエスが自分一人を一対一で相手にしてくださったということは、この人にとって計り知れないほど大きな出来事であったのでしょう。
【社会的聾唖者が多い】
現代社会にも聞こえないし話せない人はいっぱいおられます。身体的な障害がなくても、ほんとうに聞かなければならないことや、聞けばその人のためになることが聞こえていない人がいっぱいいるんじゃないでしょうか。
「おまえはだめだ」「わたしはだめだ」という言葉ばかり投げかけられてきたために、耳を塞いで、何も聞こえなくなってしまった人がたくさんいるように思います。何を言っても「だめだ」と言い返されるから、何も喋れなくなった人がたくさんいるんじゃないでしょうか。
自分を否定され続けてきたために、聴くべき言葉を聴けないし、言うべき言葉を言えない。そんな人がいっぱいいるとぼくは感じております。
そんな人をイエスは丸ごと受け入れて、あなたはぼくにとって大切な一人の人間だということを思い知らせた上で、「耳と口を開け(エッファタ)」と言ったんです。身体的な損傷があって聞こえなかったのであれば、そもそもイエスの「エッファタ」の声も聞こえなかったはずです。
イエスに認められたことによって、この人は自分を認めることができるようになり、どんな言葉も聞き取れるようになり、自分の思いを口に出すことができるようになったんでしょう。
「君は君のままでいい」と丸ごとイエスに認められた人はそれだけで十分に強くなったということです。
【抑えきれない思い】
この人は「経験したことを誰にも言わないでおきなさい」とイエスから釘を刺されたにもかかわらず、自分に起こった出来事を言わずにはおれなくて、あちこちに行って喋りまくったといいます。当然です。だってそれまでずっと喋れないでいたんですから、喋れるようになった今は、他人からどう思われようが、自分に起こった事実を喋らずにはおれなかったんです。
【ぼくたちは】
イエスが伝えた福音というのはこんなことです。単純なことです。それは一人一人が大切なんだということです。
悪意のある他人の評価を鵜呑みにしてあなたの傷口を大きくしてはいけません。
イエスがこの人を丸ごと受け入れなさったように、あなたも丸ごと受け入れられているのです。あなたを丸ごと受け留めることによってあなたを癒してくれる人の言葉を聞きなさい。
「耳と口を開け(エッファタ)」とイエスは言いました。あなたの耳で真実を聞き分けなさい。あなたの口であなたの思いを堂々と語りなさい。だれにもそれを止める権利はありません。