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「福音によって宗教から解放される」20190804
「福音によって宗教から解放される」2019年8月4日
聖書 ガラテヤ 二章 十一節~十四節
先週は、イエスがサマリアのスカルという町を通りがかった時に、ヤコブの井戸で、土地の女に話しかけた物語から説教しました。正午ごろに水を汲みに来た女は、民族と性別と職業のすべてで差別を受けていました。差別の塊のような人です。
このように人を差別をしたのは宗教(ユダヤ教)です。ユダヤ民族は、自分たちこそ神から選ばれた民族だとユダヤ教によって教え育てられていましたから、ユダヤ以外の民族を異邦人として差別しておりました。ユダヤ教はユダヤ人のための宗教ですから、異邦人を神の恩寵や救いから除外された者として扱います。異邦人との混血を疑われるものを軽蔑するように教えました。
【イエスも差別されていたでしょう】
キリスト教徒が主と呼んでいるイエスの故郷はナザレであったという記事があります。イエスという名の人はたくさんいたので、出身地を付けてナザレのイエスと呼ばれたこともわかっています。
ナザレ村は、先週の話題に登場した差別されていたサマリア地方よりも北に位置するガリラヤ地方にあります。ということは、イエスは、生粋(きっすい)のユダヤ人から軽蔑されていた地方の出身者だったということじゃないでしょうか。
話は飛びますが、クリスマスの物語によれば、イエスはユダヤのベツレヘムで生まれたことになっています。ユダヤ人にキリスト教を伝えるに当たって、イエスの故郷がナザレであったという事実は不都合だと考えたキリスト教徒が、苦肉の策として考え出した物語かもしれません。
ガリラヤ地方のナザレ出身のイエスが、ユダヤ人としての自覚をどれほど鮮明に持っていたか判りませんけれども、青年期のイエスは、モーセの律法の下で生活していたようですから、当然ユダヤ人中心の考え方をしていたと思われます。
イエスはユダヤ人として修行に励み、モーセを通してヤハヴェ(神)から与えられた律法に忠実に仕えようとしました。ヨハネからバプテスマを受け、荒野で修行したことがその証拠です。その生真面目さが、返って律法を捨てる決心を生み出したんだろうとぼくは推測しているんですが、とにかく、イエスは、律法を守れない者を罰する神などいないという結論にたどり着いたようです。
そこで、「律法を言葉通りに守れない者も、そのままで愛されている(受け止められている)」という、イエス自身が気づいた福音を伝えて、多くの人を律法の下にいる苦しみから解放しようとなさったんでしょう。
ですから、イエスが自分の福音を伝えようとした相手は、律法の下で生活しているユダヤ人でした。イエスがユダヤ教の礼拝堂(シナゴーグ)にまず行って、自分の福音を語り出したことがこの辺りの事情をよく説明していると思います。
礼拝堂に集まっていたユダヤ人は、ユダヤ教の教えにどっぷり浸かり、ユダヤ教の神への忠誠心が刷り込まれた熱心なユダヤ教徒です。これはつまり、ユダヤ教の教えに心酔(しんすい・心をうばわれた状態)していた青年期のイエスほどではないとしても、熱心なユダヤ教徒であることに変わりません。
まさに、熱狂的であった青年期のイエスに、悟りを開いた後のイエスが福音を語りかけても、理解するどころか、猛烈な反発しか生まなかっただろうと想像するに難(かた)くないように、熱心なユダヤ教徒にイエスの福音が伝わるはずありませんでした。しかし、ユダヤの同胞を救いたいと思う熱心さのあまり、こんな簡単なことに、イエスは初めの内は気づかなかったんでしょう。
シナゴーグで行われたイエスの福音宣教は、熱心なユダヤ教徒には、伝わりませんでした。その意味では、イエスが目論(もくろ)んだ宣教活動は失敗した、と言っていいでしょう。
【イエスはユダヤ教の外で受け入れられた】
ところが、イエスの意図に反して、熱心じゃないユダヤ教徒というか、熱心なユダヤ教徒から差別されていた人、いわゆる罪人扱いされていた人や、相手にされていなかった異邦人に、イエスの福音は届きました。その事実をイエスは受け止めざるを得ませんでした。それがイエスの宣教活動を、異邦人を巻き込む新しい展開へと発展させたんだと思います。初めのうちは異邦人に対して、好意的でなかったイエスも、異邦人がイエスの福音を受け止め理解したという事実によって、視野を広げられたんだと思います。
【メシアについて】
キリスト教は、ユダヤ人イエスこそメシア(救い主、キリスト)であると告白する宗教としてイエスが殺害された後に興(おこ)されました。
メシアというのは、周りの国々からの侵略や大国の圧政からユダヤ人を救い出し守るために、選び出された者のことで、そのために任命されたことを示す印として、「油注がれた者」という意味です。ある意味そんな人はユダヤの歴史の中にすでに登場しています。また、現状打開のために将来に出現が期待される者のことでもありますから、基本的にユダヤ人の希望の星です。異邦人には関係のないものだったはずです。そうであるにも関わらず、異邦人や罪人たちはイエスの福音を自分を解放してくれる教えであると理解しました。
一方、熱心なユダヤ教徒にとって、十字架で磔刑(たっけい・はりつけの刑)にされたイエスがメシアであるという告白は、受け入れがたいものであったことは容易に想像できます。案の定、。弟子たちが始めたキリスト教の宣教は、ユダヤ人には受け入れられませんでした。
【キリスト教もユダヤには受け入れられない】
初めの内は弟子たちも神殿詣(しんでんもうで)をしていたことからも判りますように、ユダヤ教の新派のように受け止められていたようです。
しかし、イエスこそメシアであるという告白が、熱心なユダヤ教徒に受け入れられるはずありません。エルサレムに誕生した初代のキリスト教会は、ユダヤ人から迫害されることになります。
エルサレムから逃げたキリスト教徒には生粋のユダヤ人じゃない者が多かったようです。彼らが逃げ延びた地で宣教したことにより、計画したわけじゃなくて、異邦人教会が誕生したようです。
エルサレムに残ったユダヤ教的キリスト教徒が異邦人や罪人に対して否定的であった一方、ユダヤから逃げ出した人々は、異邦人に開放的だったというか、そこにしか活路を見出せなかったんでしょう。とにかく、重要なことは、異邦人がキリスト教を受け入れたという事実が異邦人教会の誕生を先導したということです。
ユダヤ人に拒否されて、エルサレムを捨てたキリスト教徒は、ユダヤ教徒に拒否されたことによって、ユダヤ人の宗教という民族の枠を超えて新たな展開へと進んで行ったんです。
【エルサレム教会と異邦人教会】
エルサレムに残った初代教会は自己理解の上でもユダヤ教徒だったはずです。イエスがメシアであるという宣教を異邦人に伝えるつもりがなかったにも関わらず、エルサレムを離れた人々の周りに教会が誕生したことは驚きだったでしょう。
使徒言行録によると、ペトロが異邦人にも伝道するようにという幻を見たという記事が見られますようにエルサレム教会でも、異邦人伝道は見逃せない状態になっていたことが判ります。それでも、エルサレム教会には、異邦人伝道への躊躇(ちゅうちょ・ためらい)があります。
このような状況の中に、パウロが登場します。イエスと同じように、律法に仕えることの虚(むな)しさを体感したパウロは、律法から解放されていたので、迷うことなく異邦人伝道に精を出しました。そんな折(おり)、パウロが教えることに協力していたアンテオケ教会の噂を聞きつけたエルサレム教会から使者がやってきて、パウロの教えに対立する教えを吹聴(ふいちょう)する事件が起きました。
エルサレム教会から来た人々は、割礼を受けていない人を差別し、キリスト教徒も、割礼を受けなければならないと教えました。ユダヤ人に義務付けられた割礼を受けなければならないと主張していることから、救いはユダヤ人のためにだけあると考えていたことが判ります。割礼を強要したエルサレム教会と、異邦人教会を指導したパウロには決定的な確執(かくしつ・互いに自分の意見を主張し譲らないこと)が生まれました。このような違いを乗り越えるために何度も議論が積み重ねられられたようです。ユダヤ人のための宗教に留まり続けるか、あるいは、国や人種を超える教えになり得るか、この協議が、キリスト教神学を発展させました。
神学の発展とともに、キリスト教はユダヤ教を離れ、教会が独自に伝える教義や告白は整備され、教会が宗教の体裁を整え、近隣の宗教に対峙できるほどに神学を発展させたことは事実です。けれども、それゆえに、イエスご自身が苦悩の末にたどり着いた福音、すなわち、律法に従わない者を裁く神などいない。全ての人は愛されている、という福音の基本が忘れられたんでしょう。
【宗教化した教会からの脱出】
宗教は自分の教えの中に人を捉えます。人を分断し差別します。だから宗教や神学で人は救われません。イエスは律法を守らない者を罰する神などいないことを福音としてお伝えになりました。宗教に教えられ、宗教が教える神に囚われた人を、福音は解放します。それが救うということです。
【ぼくたちは】
ぼくたちに様々な条件をつけ、様々な要求をするのは、神の名を利用する人間が作った宗教です。宗教は人を縛るために人が作ったものです。
ユダヤ教の律法を徹底的に守ることなどできないと悟ったイエスは、律法厳守を要求する神などいないという福音に行き着き、当時の宗教教育から抜け出すことができました。従順を要求する神などいない、という情報を福音としてイエスは与えてくださいました。イエスの福音は宗教から人を解放しますから、民族、性別、職業など、何の差別もありません。イエスが伝えてくださった福音を信頼して、ぼくたちも全員、宗教から解放されましょう。