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「お互いが救い主です」20201213
「お互いが救い主です」20201213
【プレビアス・前回のあらすじ】
苦難の中での生活を余儀なくされているぼくたちは、いいかげんな言葉じゃなくて、どう対処すればいいか。具体的な方法を知らせてくれる情報がほしいんですよね。そんな情報こそが福音です。福音によって現実に苦難から逃れる道が見つかれば、それが救いです。イエスを無事に産んで育てたことで判りますように、マリアは救われました。マリアを救ったのはヨセフです。
マリアに、具体的な救いを提供したのはヨセフです。天使じゃありません。天使はマリアに福音を伝えるどころか、妊娠を伝えてマリアに苦悩を負わせただけです。つまり、救いは天からくるんじゃなくて、人を救うのは人でしかないといいうことです。旧約聖書の時代から同じです。
マリアは妊娠したことに気づいた時から、それまでの苦悩が倍化したことでしょう。なぜ倍化したと言えるのか、と言えば、誰もが黙して語らないから、それが何か判りませんが、マリアを妊娠に至らしめた事件があったからです。その事件によってマリアはすでに苦悩していたはずです。
マリアの婚約者ヨセフも、マリアが妊娠しているということに気付いたところから苦悩を味わいました。自分の子でなかったからです。一時は婚約を破棄しようとしたヨセフですが、そんなことそすれば、マリアが生きていけないことを考慮して、マリアを妻に迎え入れたんでしょう。夢の中の天使の言葉に従ったからじゃありません。
【隠された現実の方を受け取って】
福音書記者マタイもルカも、マリアを襲った事件を隠すために「マリアは聖霊によって妊娠した」という一言で済ませました。しかし、イエスが神話に登場する神の子なら、人間とは言えません。
父が誰か判らないにしても、イエスが男と女との間に産まれた本物の人間であるからこそ、イエスとぼくらの関係が保てるんです。
「男が関係せずに聖霊によって身ごもった」ということを信じ込むことは妄信です。「信仰」とは、信心など無いぼくたちが、今ある状態のままで受け留められ抱き留められて生きているという事実を受け入れることです。そう考えると、耳触りの悪い内容であっても、あるがままの現実を受け止めることの方が「信仰」に近いはずです。
神話の影には、苦悩するマリアと、そのマリアを引き受けたヨセフの苦悩という現実があります。そしてこの二人がイエスの誕生をささえたんです。救いは天から降ってこない、という、これがイエス誕生の現実の物語です。
マリアとヨセフが偉かったからできたんじゃありません。マリアは産むしかなかったし、ヨセフはそのマリアをお腹の子と共に引き受けざるを得なかった。そう悟って諦(あきら)めて、引き受けただけでしょう。
「誰が親なのか判らない子をマリアは妊娠している」という事実を、嫌でも受け入れた二人がイエスの誕生を支えたんです。そうだとすれば、イエスはマリアとヨセフによって救われたんです。これは大切な事実です。
【イエスが餌箱に寝かされた意味】
苦悩の中にいた庶民は、自分たちを救ってくれる王なるメシアを待ち望んでいたかもしれません。しかし、親がだれか分からないような子が産まれてくるのを待ち望んでいる人などいませんでした。
マリアの妊娠を喜んでいる人は誰もいなかったので、出産の準備は何もされていなかったんでしょう。救い主は、わざわざ、家畜小屋に生まれてくださったんだ、と言いますけれども、それは後の時代に「イエスは救い主としてこの世に来て下さったんだ」と教えている教会だから言えることです。けれども、イエス誕生の現実はそんなもんじゃなかったんです。マリアが産む子はだれからも期待されていなかったんです。
マリアとヨセフが、二人だけで故郷を離れ、旅先でお産したことになっているのは、たぶん、故郷の実家でお産することが許されなかったからでしょう。
十分なお金もなくて、宿にも泊まれない状態で、なんとか見つけた夜露をしのげる場所が家畜小屋だったのかもしれません。もちろん、家畜小屋で生まれたということが神話のエッセンスじゃなくて事実だったらの話しですがね。
「布にくるんで飼葉桶に寝かせてあった」と、さりげなく書かれていますけれども、尋常じゃないでしょう。その意味は何も準備されていなかったということです。そんな、状況に生まれた人がイエスです。いわゆる恵まれない人です。
結局のところイエスが産まれてくることを受け入れたのは何の準備も出来ていないマリアとヨセフだけだったんです。それでも、とにかくこの二人が引き受けてくれたんです。
イエスが生まれた環境は、決して珍しくありません。同じような出来事は、今も、世界中で起こっています。災害に遭った地域、紛争中の地域で家を無くした人が、お産しています。望まれないで産まれてくる子たちが現実にいます。大切なことは、少なくともイエスは、二人に受け留められ抱き留められたという事実です。受け入れられなければ生命は育ちません。
とにかく、昔も今も、どうして良いか判らない人には救いなんかない状態です。「こんな世界に、神も仏もあるもんか」と言いたくもなるでしょう。牧師が言うのもおかしいですが、確かにその通りだとぼくも思います。ぼくたちの現状は「苦悩していたマリアやヨセフ」の状況に似ています。
もしそうならば、救いが天から来ないことも判るはずです。ヨセフがマリアを救ったように、人が人を救うんです。
イエスが人間として生まれ育った現実が、自分は救われないと思っている人を、救う人がいることを教えています。天に可能性はないけれども、人には可能性があります。
【救い主は天から来ない】
救い主が天から現れて、ぼくたちを救ってくれればいいなあ、と思っているのは幻想です。神話は夢を見せますが、救う力はありません。
教会は、メシア(救い主・キリスト・選ばれし者)を神から遣わされた神の子として、神と同格のように教えてきました。けれども、選ばれし者は神じゃありません。神が選んで信任したんだとも教えて来ました。けれども、そんな現実はありません。神が出て来て、「メシア、お前に任せるよ」なんて言うのは神話です。神様が、なんでもできる全能者ならば、困難な仕事を人に任せないで、自分で解決したらいいんですよ。そうでしょ。
神様は人間を成長させるために教育しておられるんだ、と教える人もおりますが、そんな教えは庶民を馬鹿にしている官僚的な考え方です。神様が大事だと信じている信者が、のようです。神様をそこまで貶(おとし)めちゃいけません。
さて、十五年前の説教で、西野バプテスト教会を指して「来年はなくなってしまうかも知れないと思えるようなこの小さな群」と称しているんですが、今も存在しています。不思議でしょ。
苦悩している教会の中に、知らぬ間に救い主が現れていたんでしょうか。
ぼくが選ばれし者として働いたのか、というとそうではないんです。確かにぼくも西野バプテスト教会のために、働いて来ました。ただし、ためになったかどうかは判りません。いずれにせよ、ぼくが一人で教会を今まで支えて来たんじゃないことは明白です。ぼくはぼくのできることをして、ぼくのやらないことをしてくれる人が居て、もうすでに亡くなった多くの方々も含めた全員で、今のこの教会を抱き留めているんです。
【メシアは個人じゃない】
この現実を見て、今まで口にしたこともない考えが浮かんできました。とても大切な内容です。初めてなので、こっそり言います。理解できなかった人は、後でYouTubeで見てください。
「メシア(救い主、キリスト、選ばれし者)は、個人的な概念じゃない」ということです。
ただ個人的なイエスだけがメシアであるかのように教えられて来ましたけれども、メシア(救い主)は、概念として個人を指す言葉じゃない。そうではなくて、集団的というか、相互的な概念として考えるべき言葉です。こういう言い方をするのは今日が初めてです。
知ってか知らずか、知りませんけれども、マタイもルカも、天使を登場させたことによって、マリアやヨセフの現実を覆い隠しています。しかし、じっくり見たら判りますように、「マリアとヨセフが、イエスを救った」んです。
イエスはマリアの救い主じゃなくて、マリアがイエスの救い主です、そしてヨセフがマリアの救い主です。この事実が「メシア」の概念を示しています。メシア(救い主、キリスト、選ばれし者)は、天から降りてくる個人じゃないんです。
苦労してイエスを産み、苦労してイエスを育てた人たちがイエスのメシアです。救われたイエスが、苦悩している人を救って、その人のメシアになったんです。
【ぼくたちは】
マリアやヨセフの苦悩と比べることはできませんけれども、ぼくらは、自分一人ではどうにもならないことがいっぱいあることに気がついているはずです。だからこそ、人間とは、他者に守られ育てられるものであることにも気づけるでしょう。人は人によって救われます。現実にお互いが、お互いの救い主になっているんです。イエスの誕生についての記録には、そういうことがはっきりと明示されています。これがイエス誕生物語の本当の意味だと思います。
天使は助けることができいません。だから、天使の声じゃなくて、人は自分に聞こえる人の声で、福音(確かな情報)を聞きたいんです。
救い主が現れるのを待っている人がいるはずです。ぼくたちも、新しい人間関係で救い主になれます。
ぼくたちは、互いに、互いの救い主となって、助け合いながら生きてゆきましょう。この考えが、あなたの福音になったら幸いです。