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「神との契約は取り消しましょう」20220521
「神との契約は取り消しましょう」20220521
聖書 創世記十七章一節~十四節
ぼくは、戦後七年しか経っていない昭和二十七年(西暦一九五二年)四月十四日に大阪市阿倍野区阪南町で生まれました。サンフランシスコ講和条約が調印されたのは一九五一年九月八日ですが、その発効は翌一九五二年四月二十八日ですから、ぎりぎりアメリカ軍の占領下で生まれたのです。生まれたすぐのことは何も覚えていませんが、数年後のことはいくつか覚えています。今の生活とは全く比べ物にならないくらい物が無かったので、二畳(じょう・たたみ)半と三畳半と六畳という中途半端な部屋が三つしかなかった長屋の一軒であったにも関わらず、狭いとは思いませんでした。朝起きればみんなの布団を畳んで押し入れに仕舞いますし、ご飯をいただく時には、折りたたみ式の丸い卓袱台(ちゃぶだい)を出して、食べ終わればまた折りたたんで、隅に片付けたのですから、ベッドやテーブルや椅子が部屋を占領している今の生活よりも広々していたのです。
今は札幌で車庫も庭も備えた二階建ての持ち家に住んでおります。多くの部屋や広い空間があるにもかかわらず、二十年以上住んでいますと、増えた物のために部屋を狭く感じます。四人家族に合わせて作ったのですが、子どもたちは巣立ちして、家族は半数になったにも関わらず、狭く感じるのですから困ったもんです。
今日は住環境の話をしようと思っているわけではありません。その家を建てる時に気付かされた「契約」について話したいと思ったのです。
【契約とは】
家を建てた方は、設計施工業者と契約書を交わしたはずです。借家住いをするためにも賃貸契約しなければなりません。車を買うにも契約が必要です。現代のように契約の種類がたくさんありますと、知らない内に不利益状態に巻き込まれることがあるので、契約する前によく考えなければなりません。
たとえば、多くの方はスマホの中にたくさんのアプリを入れておられますが、それらをダウンロードする前に契約内容を細かく読んで納得した人は少ないはずです。真剣に読めば、アプリをダウンロードする気にならないはずです。なぜなら、会社が不利益を被らないために、法律の専門家たちが契約文章を練り上げて作っているからです。問題が起きても、ユーザーが不利益を被るように、設計されているからです。ユーザーは、何も問題が起きないことを望んで、もしもの時も、なんとかなるだろうと思い込んでアプリをダウンロードしているはずです。怖いことですが、そうでもしなければ、空っぽのスマートホンにならざるを得ません。世の中に溢れている契約のほとんどは、不平等契約なのです。
契約という概念は非常に古くからあります。旧約と新約があるように、聖書には神と人の契約が書かれていると理解されています。
ちなみに、チャットジーピーティーに、神と人の契約は不平等契約ではないか、と訊いてみましたところ、神の愛と慈悲を強調しつつも、神と人との契約は不平等契約だと言われる、というデータが返ってきました。
全能である神と、神に対して無力な人との間での契約は、神のみが人間に指示することができる点で不平等だということでした。
人は神の指示に従うように厳しく要求されます。要求を満たせば、神は人を祝福し保護し導く約束になっているのですが、確実ではありません。現在のアプリの契約と同じように、人は神に要求する権利がありません。それだけではなく、神は契約内容を勝手に変えることができるのです。このような契約は明確に不平等契約です。
【勝手に選ばれたくない】
さらに神は、契約する相手を自分勝手に選びます。人は神を選べません。先週の説教に登場したアブラハムも神に選ばれたことになっております。「おめでとうございます。あなたは選ばれました」というメールが来ることがありますが、応募した覚えはありません。「勝手に選ぶな」と言わねばなりません。というよりも、こんな呼びかけに返信してはいけないのです。
聖書の神も勝手に相手を選んでいます。気に入った相手を選びたい気持ちは判りますが、選ばれた方は迷惑です。
昔の権力者は勝手に相手を選んだようですが、今の日本では結婚相手を勝手に選ぶことは許されません。パートナーを選ぶ場合は、対等に選び合うことが求められます。昔は男と女の関係は不平等だったのです。強大な王は勝手に選んだ女に忠誠を求めます。気に入らなくなれば捨てます。そんな不平等が行われていたのです。神と人の関係も同じように見えます。そんなことでいいとは思えません。ところが宗教が教える神は自分勝手な選びと契約で人を縛り付けているのです。聖書の神との契約は絶対的なものだと教えられてきましたけれども、そろそろ考え直すべき時です。
【契約は不確か】
そもそも契約という概念は絶対的なものではなく、不確か極まりないものだということを、今日は確認していただきたいと思います。
契約も約束も誓いも、まったく不確かで信頼できないものなのです。契約したからと言っても安心できないのです。
たとえば、みなさんが誰かと契約を結んだとしましょう。そのとき、あなたは相手を信頼できると思い込んだかもしれません。少なくとも他の誰かより信頼できると思ったから契約して、仕事をしてもらうことにしたはずです。しかし、たとえ大手建設業者と契約したとしても安心できません。安心していないから、代理人まで立てて書類を審査し中間検査をし完了検査をしなければならないのです。まったく安心していないのです。所詮、契約とはそんなものです。約束を守ってくれそうな相手だから契約したのでしょうが、それは全くの思い違いです。実は、約束を破るかもしれない相手だから契約を交わすんじゃないでしょうか。約束を破れば償(つぐな)ってもらうぞ、仕返しはするから忘れるなよ、という血判が契約なのです。完全には信頼できない相手と関わりを持たなければならない時に交わすものが契約なのです。
よく言われる信頼とは現在の政権に対するアンケート調査に出てくる「他の政権よりマシだと思うから」という回答に似て、他の人よりマシだと思うから、という程度のことなのです。そんなものは「信頼」ではありません。むしろ、契約を交わすのは信頼のない証拠です。ですから聖書の神と人の間にも信頼関係はないのです。
【ぼくたちは】
十年保証というのが流行っていたころに我が家を建てました。十年保証してもらえるかと尋ねましたら、「なんぼでもしてやる。契約書はいくらでも書けるけれども、十年後に会社があるとは限らない。そもそも俺とお前の関係で契約書が必要なのか」と言われて気がつきました。契約が履行される保証は無いのです。契約書よりも信頼できる関係であることが大切なのです。
神の選びによって押し付けられた不平等契約など取り消して、契約を必要としない信頼関係を築き上げるために、ぼくたちは、人との関係を大切に育てることに専心すべきなのです。