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「悪霊の見分けかた」20221030

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「悪霊の見分けかた」20221030

聖書 マルコ福音書 一章二十一二十八

 

 今日読んだマルコの福音書はユダヤ教の会堂にいた穢(けが)れた霊に取り憑(つ)かれた男が登場します。そんなことがあったんだ、と読み過ごしてしまえばそれだけのことですけれども、先入観を捨ててみ直すと「会堂の中に、穢(けが)れた霊に取り憑(つ)かれた男が居た」という奇妙な表現気づきます。

 イエスが会堂の中で教え出たのを見ていたこの男が、イエスを会堂から追い出そうとしたように感じます。ということは、この男は実はこの会堂の責任者であった可能性がある、とぼくは思いました。今まで多くの人は会堂の隅っこにいた人が急に出てきたのはこの男が常人でなくて、悪霊に取り憑かれていたからその場の雰囲気を考えもしないで、イエスにくってかかったように思っていたんじゃないでしょうか。しかし、悪霊に取り憑かれている人が、この状況でイエスの前に出てくる必然性はありません。

 この物語を素直に読めば、まるで悪霊に取り憑かれたような男がユダヤ教の会堂にいたので、イエスは、その男から悪霊を追い出したというだけです。ただし、本当は、伝統的なユダヤ教に対する痛烈な批判が書かれているのだとぼく気付きまし

 ユダヤ教の礼拝堂いわゆる会堂に悪霊に取り憑かれた男が居たというこの話が教えているのは、実際にこの世の勝者のような人が集まっている所に悪霊が取り憑いているような人がいるということだと思います。例えば、現在開催中の我が国の国会の中にも、また先週開催された隣国の共産党大会の中にも、さらにロシアのクレムリン宮殿の中にも、まるで悪霊に取り憑かれたような人がいると思えます。迷える人々を救済するために教えているという統一教会の中にも悪霊に取り憑かれたような人がいます

 民衆を幸せにするために活動している、と言いながら、その実、民衆を苦しめている人がいるのが現実です。このような状況を見分けることができる人には、それぞれの場を仕切っている人が、まるで悪霊に取り憑かれている人のように見えるということです

 

【悪霊に取り憑かれたような人はどこにも居る】

 今日の物語を、このような視点めば、会堂の中でイエスの前に飛び出てきた男に悪霊が本当に憑いていたではないと思えます

 頼まれもしないのに会堂で突然教え始めたイエスを排除しようとした男を、イエスが逆に制止しただけです。この出来事を、福音書の著者マルコが、イエスは会堂にいた男から悪霊を追い出したという物語として伝えたのですこれはマルコが伝えている物語です。もちろん、その背景には、ユダヤ教の会堂には、まるで悪霊に取り憑かれたような男がいる、というマルコの解釈があるのです。

 現実にこんなことがあるなどと考える人は一般にはいません。ユダヤ教の会堂に悪霊に取り憑かれた男が当たり前のようにいるとは誰も考えません。同様に、キリスト教会の中に悪霊に取り憑かれた男がいるなんて考えません。

 行政の場行政執行の場どんな集まりでも、その場を取り仕切る者が悪霊に取り憑かれているとは、だれも普通に考えないでしょう。

 しかし、現実には、市民を守るはずの警察や軍隊が無抵抗な庶民をボコボコに殴る様子を目にします。それらの組織の長たちは、まるで悪霊に取り憑かれているのではないかと思えるようなことを平気でしているんです。息子や娘が痛めつけられているのを平然と見ておれない一般人の目には、組織がやっていること間違っていると映るはずです。現場で暴力を振るっている人は、上からの命令に従っているだけだと言うでしょう。けれども、下をいじめることをなんとも思わない人々みんなまるで悪霊に取り憑かれているとしか思えません

 会堂や教会のように、たとえ神様に従う清い心の人たちが集っているはずの場所であっても、その中にまるで悪霊に取り憑かれているとしか言えないような人がいるのが現実なのです。

 

【イエスの教えは受け入れられなかった】

 イエスはユダヤの教えを全うするために荒れ野に出て徹底的に努力した結果、そんな努力によっては救われないと悟りました。荒野での修行を止めて、街中に戻ったイエスが今日の物語で、再び会堂に入って教え始めたということが腑に落ちていなかったぼくは、今日の箇所から、新しいヒントを得ました。

 イエスは、古い慣習の詰まったユダヤ教の会を中心にする生活に戻ったのではない。そうではなくて、会堂の中には人々安らかにする教えがないことを断言するために会堂に行っただと思いますその仕草が、ユダヤ教の指導者以上の権威者であるかのような振る舞いをしている、と会衆映ったので聴衆は決してイエスの権威を認めたのではありません。「権威者のように振る舞うこ男は何者じゃ」と怪訝(けげん)に思っただけでしょう聖書の言葉を読むと「なんと素晴らしい権威者のような教えだろう」と、人々が感嘆の声を上げたかのように読めるのは、翻訳者がイエスの言葉に感嘆しているからです。しかし、現実は「なんじゃこいつは」と馬鹿にした言葉にちがいありません。

 

どちらも悪霊憑きのよう

 だからここで、男が突然イエスの前に飛び出してきたのは唐突ではなくて当たり前のことです。会堂の運営責任者が、イエスを制止するために飛び出してきたのでしょう。その男をマルコは悪霊に取り憑かれた男と呼んでいるのだと思います。

 ユダヤ教の指導者たちが、イエスのことを悪霊に取り憑かれていると言っていた(マルコ三章二十二節)ように、マルコは、会堂にいた男を悪霊に取り憑かれた男と言い返したのでしょう。

 誰にとっても、自分の信念に反する者は悪霊に取り憑かれている者なのです。

 このように相手を扱(こ)き下ろすだけでは子供の喧嘩と同じです。どちらが正しいなどと言うこともできません。問われているのは、どちらの主張が多くの人を幸せにできるかなのです

 イエスは、ユダヤ教が教える神に仕える生活の仕方から離れて自由に生活する道をえらびました。そしてその生き方を人々に示して歩いたのです。既存の宗教者、イエス悪霊憑きだと罵倒(ばとう)しました。しかし、多くの人はそのイエスの教えによって自由の救いを得たのです。

 イエスは組織によって殺されましたけれども、福音は人々の中に生き残りました。時を同じくして、イエスをキリストと称(たた)える組織できたようです。組織は信条を生み成長しました。けれども組織の信条に合わない者を悪霊憑きだと断罪して追い出しました。

 互いに相手を悪霊憑きと罵(ののし)り合っても(らち)が開きません。悪霊憑きなのかそうではないのかを見分ける方法は簡単です。人々を縛り付けているか自由にしているを見分ければよいのです。

 

【ぼくたちは】

 イエスは自由になる道を選んで、それを福音として伝えたのですから、ぼくらが選ぶ道は一つです。それは、ぼくらを自由にする福音を大切にする道です。

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