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「だれも生き返らない」20220821
「だれも生き返らない」20220821
聖書 マルコ福音書 十二章十八節〜二十七節
お盆休みを有意義にお過ごしになったでしょうか。日曜日に教会を休みにするというのは、どうもしっくりきません。お盆には多くの日本人が墓参りなさいます。みなさんのご家庭ではどうだったでしょうか。キリスト教では復活祭(イースター)に墓詣でなさる教会が多いようです。お盆にはご先祖さまが家に帰って来られるのだというようなことを昔聞かされました。まあそれでも生き返ることとは関係ありません。
さて、悪人が何かの出来事をきっかけに善人になってしまうことを「人間が生まれ変わった」などと申します。聖書にも「放蕩息子」と言われる譬え話では、親も故郷も捨てて出て行った息子が親の元に帰ってきた時に、父親が喜んで「死んでいた息子が生き返った」と言っております。比喩的な表現です。このようなことなら実際にあります。しかし、生命反応が停止した人、すなわち死んだ人が生き返ることは現実にはありません。死にそうな人を蘇生する術はありますけれども再生術はありません。そうであるにもかかわらず、死んだ者が、死んだ時と同じような姿で生き返ることを復活だと考えている人がキリスト教徒の中にも大勢おられるようです。そんな希望を砕いてしまうのは、心苦しいのですけれども、そんな復活はあり得ません。
【骨は元に戻りません】
現代の日本人が死んでから残すことができるのは骨だけです。その骨もいずれ分解して土に戻ります。せめて骨だけでもバラバラに紛失することがないように骨壷に入れて大事に保存したいのでしょう。復活の時に骨たちが集まって元の身体が再生されると信じている人もいるようですが、それを思うと、集まって来るのに大変ですから分骨も考えものです。収骨の時に、細かな骨の残骸も塵にしたくないというのが本音ですが、遺灰(いはい)の実態は刷毛(はけ)で集められて、他人の遺灰と混じってしまうのです。
【納骨事件】
父の遺骨を岩本家の墓に収めに行った時のことが思い出されます。遺骨を土に還してあげた方が良いとお寺さんがおっしゃったので、そのようにしてもらいました。その際に、父の妹の遺骨も同じようにしてもらいました。
義母の村松玲子の遺骨を西野バプテスト教会の墓に納めた際には、担当者が、白い布の上に遺骨を丁寧に移してから、足の骨から順番に、そして最後に頭頂部の骨を被せるように墓に納めてくださいました。僧侶ではない墓所の担当者がこのように丁寧に扱ってくださったことが嬉しかったです。
ここで父と叔母(おば)の遺骨の扱いに戻りますと、なんと僧侶は骨壷を逆さまにして、遺骨をザーあっと墓の中に開けたのです。いやいやヤンチャな坊さんだなあと思いました。
というのも、骨拾いの時に担当者が何と言っているか、みなさんはよくご存知でしょう。足の骨から順にいれてあげてください、そして最後に頭頂部のお骨を被せてあげてください、とおっしゃいます。壺の中で天地無用、順不同にならないようにという心遣いなのであります。
ところが、この僧侶はお墓の土の上に、壺から直接に開けたんです。もうお判りでしょう。
せっかく壺の中で立たせていただいていた遺骨が、それから後は、墓の中で、末永く逆立ちの状態に置かれることになったわけであります。言うこととすることが、めちゃめちゃいい加減ですよね。
まあ、収骨の時からいい加減なもので、できるだけ残さずに拾ってあげてください、と口では丁寧に言うんですが、そのために遺骨を棍棒で砕きながら詰め込むのはいただけません。
深々と礼をして、恭(うやうや)しく扱っているようですけれども、実態は文字通りグチャグチャなんです。言葉と実態がかけ離れていることに愕然といたします。
壺のまま納骨される場合もあります。国によっても時代によっても違います。アメリカのドラマなどを見ていますと、火葬せずに遺体の入った棺(ひつぎ)をそのまま墓に納める場面が出てまいります。世の終わりに死者が甦らされるという信仰に則っている葬儀では火葬しません。
エルサレムの近くにはお墓がたくさんあるんだそうです。行ったことないので知りませんが。終末の時には、今は塞(ふさ)がれている黄金門が開いて、復活した者たちがそこから入るんだそうです。復活の時に少しでも早くエルサレムに入りたい人は、大金を積んで門の近くに埋葬してもらうのだそうです。こんなところにもお金が絡んでいます。
古代エジプトでは死んだ時と同じ状態で戻ってきたいと考えたファラオは遺体をミイラにさせたんでしょう。しかし、莫大な財力や権力がなければ、遺体をミイラにできません。庶民には手の届かない夢のようなことでした。
【イエスは復活について語っていない】
さて、復活の話題が取り上げられている今日の聖書の箇所には、復活はないと主張していたサドカイ派の人々が出てきて、復活の時にはどうなるか、とイエスに問いかけているということですから、言葉遊びをして茶化しているだけですが、まあ中身を見てみましょう。
七人兄弟を順次夫に持った女は復活の時に誰の妻になるのかとイエスに問いかけたのです。このような言葉遊びに対して、イエスは事細かく答弁などしていません。ただ「君たちは完全に思い違いしている」と答えただけです。ここでは、生前と同じ身体や背景を持って蘇って来ることなどない、とイエスが考えておられたことが判ればじゅうぶんです。
「死者の中から復活する時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」と言ったように書かれているのですけれども、「天使のようになる」などと言われてもさっぱり理解できません。イエスがこんなことを言ったとは思えません。考えても答えの出ないような細かい描写は無視していいのです。「君たちは思い違いしているよ」とイエスは批判しただけです。これが本心です。しかし、批判した後に、「死者の復活のことについては・・・」というイエスの言葉が続いているので、復活のことが語られるのだろう、と現代人も期待するんですが、よく読むと、イエスは復活のことについて何も語っていません。死がどんなものかなどとも言いませんし、復活がどんなものかなどともイエスは一言も語っておりません。言葉遊びの議論を捨ててしまって、モーセに初めて語りかけた神が自己紹介した時の言葉をイエスは突然に持ち出しました。そうして「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と神はおっしゃったのだから「神は死んだ者の神ではなくて生きている者の神なのだ」と復活などとは全くかけ離れた言葉を述べただけです。イエスは今生きている者のことだけを考えているのです。
【ぼくたちは】
今までに死んだ人全員が証明しているように、死んだ人はだれも生き返りません。これが事実です。死後のことも復活のことも実態のない言葉遊びをしなくていいのです。
ぼくたちも言葉遊びによって惑わされないために、イエスがなさったように、人はどのように生きればよいのかという実態のあることだけに集中する者になりたいと思います。