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「マリアを救ったのはヨセフ」20201206
「マリアを救ったのはヨセフ」20201206
聖書 マタイ一章十八節~二十五節
【プレビアス・前回のあらすじ】
世界中の人が苦難の中で生活しています。苦難から抜け出すために、何らかの光を見たいと望んでいます。苦難から抜け出すための具体的な方法を示す確かな情報を求めている、と言えるでしょう。いい情報こそ福音です。キリスト教の教義で教えられる「福音」じゃなくて具体的な救いに繋がる「情報こそが福音」です。福音によって苦難から逃れる道が見つかれば、それが「救い」です。
さて、先週、マリアは具体的に救われた、と言いました。イエスを無事に産んで育てたことがその証拠です。
じゃあ、誰がマリアを苦境から救ったのか、というところで、先週は終わりました。きょうはその続きとなります。
【人がマリアを救った】
マリアは妊娠したことで突然に苦悩を背負わされました。もちろんその前に、マリアが妊娠する原因を作って、マリアに苦悩を負わせた人がいるはずです。しかし、それに関して、聖書はいっさい口を開きません。原因があって結果があるんですが、この原因に目を注いだ説教を聞いた覚えはありません。隠されているのだとぼくは考えています。
いずれにせよ、マリアは苦悩を背負わされました、こんなマリアに、具体的な救いの道を示す福音を伝えたのは、天使じゃありません。天使はマリアが苦難に陥る元凶、つまり妊娠するという結果を知らせただけです。だから、天使が伝えたのは、救いの福音なんかじゃありません。天使は苦悩を与えただけです。マリアを救ったのは天使じゃなくて「人」です。今日は先週の予告通りマリアを救った「人」について話します。
マリアだけでなくヨセフも、婚約者マリアが妊娠しているということに気付いた時から苦悩を味わいました。マリアのお腹にいるのが自分の子じゃないことを知っていたからです。
ヨセフは「正しい人であったので縁を切ろうと思った」と書かれています。マリアとの婚約をすぐに破棄しようと思ったでしょう。厳格な律法主義者だったら、マリアを訴えて石打ちの刑にでもしたでしょう。しかしヨセフは、事件を公にせず「ひそかに離縁しよう」とした、と書かれています。自分の都合だけを考えたならば、離縁する方が簡単です。しかし、離縁したら、マリアの行き場所はありません。いろんな葛藤はあったはずですが、そのまま放っておくことができなかったんでしょう。
結果的にヨセフは離縁するよりももっと大変な道を選び、マリアを妻として迎え入れました。
ヨセフはそれほどマリアを愛していたのか、優しかったのか、弱虫だったのか判りませんが、とにかくヨセフはマリアを妻に迎えたことは確かです。マリアはイエスを産み、立派かどうか判りませんが、とにかくイエスが育っておとなになったということがその証拠です。
ヨセフはマリアの苦難を引き受けたということです。なぜ、そこまでできたのか不明確です。。
【夢がヨセフをそうさせたんじゃない】
福音書記者マタイも、ヨセフがマリアを妻にした理由が判らなかったんでしょう。なんとか説明するために、ヨセフの夢の中に天使を登場させたんじゃないでしょうか。
マタイの説明によりますと、離縁しようと決めた矢先に、ヨセフは夢を見たことになっており、夢の中の天使が「妊娠したマリアを妻にしなさい」と告げたから、ヨセフは迷わずマリアを妻に迎え入れたことにしております。「夢を見た」ということの意味は分かりますよね。これは「ヨセフ一人だけに示された」という意味です。何の証明もないということです。事の真偽を誰も問うことができません。簡単で、ずるい説明です。
人の妊娠期間は十月十日(とつきとおか)と言います。妊娠五ヶ月頃になったら鈍感な男でも判ります。マリアが妊娠していることを知ったヨセフは、誰にも相談できずに一人で相当長い間、苦悩したはずです。ところが、天使を登場させたことによって、ヨセフの苦悩は、天使の影に隠れて見えなくなってしまいました。
天使のお告げがあったなんて、素晴らしいできごとのように勘違いする人もいるでしょう。しかし、そんなもんじゃありません。
たとえ天使のお告げがあったとしても、誰の子か判らない子を孕(みごも)っているマリアを妻として迎えることなど、簡単にできるもんじゃありません。お告げに従うことは離縁するよりも、ヨセフにとってつらい選択のはずです。だから、天使のお告げなんて、嬉しいことじゃありません。お告げはヨセフを苦悩の現実から解放しません。天使はヨセフに苦難を強いただけです。
イエスの誕生神話を御伽噺(おとぎばなし)のように受け取って来た人が多いでしょうが、現実は過酷だったんです。イエスが誕生する準備段階において、喜んでいる人は誰もいません。
マリアのお腹の子はヨセフの子だと誰もが思うでしょう。それに対して、ヨセフは何一つ言い訳していません。言えばマリアが大変な目に遭わされるからです。だから、ヨセフは、周りから攻められても何もしゃべらなかったはずです。ヨセフはそういう仕方でマリアを守ったと言えます。
【隠しちゃならない現実】
福音書記者マタイは、マリアとヨセフの苦悩の現実を、クドクド説明しないで「マリアは聖霊によって妊娠した」という一言で済ませることに成功しています。簡単に済ませたかった気持ちも判りますが、こんなことをしたので、マリアとヨセフが苦悩した現実が隠れてしまいました。
「聖霊によって身ごもった」という言葉の奥に、マリアを襲った事件が、隠されて全く見えなくなってしまったんです。「聖霊によって」という言葉は同時に、イエスが男と女の間に産まれた子ではない、ということにしてしまいました。
これは大問題です。イエスは人間でなくちゃ困るんです。なぜならば、イエスが本当の人間でなかったならば、ぼくたちと関係がないからです。
お父さんが聖霊でイエスは神の子だった、なんてことならば、本当の人間とは言えません。
父が誰かは判りませんが、とにかく、イエスは男と女との間に産まれた本物の人間であったことを忘れちゃいけません。イエスは天から降って来たんじゃないということが重要なんです。
言葉にできない、けれども、確かに人間関係の中で産まれたんです。そんなイエスも受け入れられたから育ったんです。これが重要です。
誰も望んでいなかったイエスが、守られ、育てられたんです。ということは、たとえ、どんな状態であったとしても、ぼくたちも、受け入れられて育ってきたんだ、ということを証明しているんです。たとえどんな状態であっても現実のままでいいということです。
イエスがぼくらと全く変わらない人間であったからこそ、イエスとぼくたちは深いかかわりがあるんです。もしも、イエスが天から来た子、聖霊によって生まれた子であって、天に属する存在だったならば、ぼくらと関係ありません。
【なぜ引き受けたのか】
とにかくヨセフは、苦難を背負わされたマリアを、助けました。なぜ、ヨセフはこんなばかげた役を引き受けてしまったんでしょう。なぜ誰の子供か分からない子供を妊娠しているマリアを引き受けたんでしょう。
確かなことは、マリアを、その子供と共に引き受けることが出来るのはヨセフしかいなかったということです。助けることができるのは自分だけしかいないと悟ったからでしょう。けっして夢を見たからじゃない。そう思います。
夢の中で天使がお告げしたことなどかんけいありません。そんな理由でヨセフがマリアを迎え入れたなんて説明する神話を前面に出してしまうと、ヨセフの苦悩が見えません。
マリアとヨセフは、二人とも、苦悩の末に、現実を引き受けざるを得なくて引き受けただけです。引き受けたくないはずのものを引き受けたことこそが奇跡と呼ぶにふさわしい出来事です。
マリアの苦悩を引き受けた人間ヨセフが、マリアを守り、イエスの誕生を支えたんです。それがイエス誕生に至る真実だと思います。
【信仰とは、受け止め受け止められること】
男が関与せずに、まりあは「聖霊によって身ごもった」というマタイの説明を信じ込む必要はありません。そんなことを信じることが信仰じゃありません。信仰は信じ込むことと関係ありません。
信仰とは、「ぼくたちが、ただ受け入れられて生きている、という事実を、受け入れること」です。
ヨセフは、父が誰なのかを明かせない子を身籠(みごも)ったマリアを、問い詰めることなく、黙って受け止めたんでしょう。
わけのわからない状況を、そのまま黙して受け止めた人々がいたから、イエスは生まれ育てられたんです。
イエスは、社会の底辺で誕生し、社会の注目も浴びずに育ったはずです。それが重要なことです。なぜならば、そうであったからこそ、すべての人は愛されて生まれ、愛されて生きている、という福音(確かな情報)を、伝えることができるようになったにちがいないと思うからです。
どうしようもない出来事でも、そのまま受け入れた人々が、人を事件から救い出してきたんです。
【ぼくたちは】
ほとんどすべての人は苦悩しています。イエスの誕生を支え、イエスを育てたマリアとヨセフもそうでした。そこに、天使のお告げなんか必要ありません。お告げは現実を見えなくするだけだから、必要ないし、返って邪魔です。
ぼくらもお告げを受けたことがないように、マリアもヨセフも、天使のおつげなんか受けませんでした。ヨセフは自分がやるべきだと思ったことをしただけです。そのようにしてマリアはヨセフによって救われました。人が人を救うんです。あたりまえでしょう。あなたは誰に救われましたか。今のあなたを救ってくれるのは誰でしょうか。落ち着いて考えてみましょう。