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「宗教難民いらっしゃい」20220206
「宗教難民さんいらっしゃい」20220206
聖書 マルコ 二章十三節~十七節
マルコ福音書一章十六節の前に「四人の漁師を弟子にする」という小見出しがあるのに続いて、二章十三節の前に「レビを弟子にする」という小見出しが書かれています。どちらも「弟子にする」という共通の言葉が書かれていますが、前にも言いましたように、「弟子にする」というのはこの聖書の翻訳者の解釈です。小見出しは、場所を探し出す時に使える程度のものです。意味を考える時の参考にしちゃいけません。
聖書本文を読むと、イエスが四人の漁師とレビを誘ったことは判りますが「弟子にした」とは書かれていません。誘ったということと弟子にしたということはまったく異なる出来事です。ぜひ注意して読み分けていただきますようおねがいいたします。
【批判的に考えよう】
さて、アルファイの子レビは収税場に座っていたとありますので、税金取り立て人、いわゆる徴税人(ちょうぜいにん)であったと思われます。昔からどこの国でも嫌われた小役人であったようです。そんな人にも声をかけたなんてイエスは狂っているとしか見えません。
先に漁師たちを誘った後で、漁師の一人シモンの家に行った時のように、今回もイエスはすぐにレビの家に上がり込んで食事の席に着いたようです。やっぱり、けっこう厚かましい人だったように感じます。
しかも、イエス一行が上がり込んで着いたレビの家の食卓には、レビの徴税人仲間や律法学者から罪人と呼ばれる類(たぐい)の人がたくさん同席していた、と書かれています。
ここに書かれている「徴税人や罪人」という言葉をそのまま無批判に読んでしまわないように注意してください。なぜならば、言葉のままを鵜呑みにしていまえば、読者の頭の中で、徴税人が罪人と認識されてしまうからです。こんな言葉を無批判に受け入れてはなりません。なぜならこの言葉は事実に反しているからです。
当時のユダヤ教が蔓延していたイスラエル社会が、徴税人を罪人と認識していたのは事実ですが、決してイエスの思考ではありません。
ファリサイ派の律法学者が「どうして彼(イエス)は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」とイエスの仲間に問いかけた言葉です。ですから、徴税人をその他の人々と一緒くたにして、ろくでもない者たちだという扱いをしているのはユダヤ教の指導者たちです。単なるユダヤ教指導者の考え方なのですから、真実であるという保証などないことは、どなたにも理解していただけるでしょう。はっきり言ってユダヤ教指導者たちの思い込みです。たとえ彼らが専門家であったとしても、一部の人の思い込みをそのまま取り込んで、自分の考え方にするのは危険です。聞いた言葉をそのまま受け入れるのではなくて、誰の言葉にせよ自分の責任で批判的に考えてみるのが大人というものです。批判するということはただ単に反対することではありません。そうではなくて、何事も、そのまま鵜呑みにせず、検証してみることです。
イエスが生活なさった当時のイスラエルでは、ユダヤ教の指導者たちは幅を利かせていましたから、庶民は宗教指導者たちの教えは正しいと思い込んでいたはずです。そうだとすれば、徴税人やその仲間は罪人であるという考えが一般的だったはずです。真実かどうかは別問題です。
【イエスにも罪人の烙印を押そうとした】
このように、社会から一般的に罪人という烙印(らくいん)を押されている人々とイエスは食卓を共にしたということです。
どこの国でも、食卓を共にするというのは、仲間であることを意味します。ですから、「イエスは罪人たちの仲間だろう」とイエスの仲間に言った専門家たちは、イエスを非難したのです。非難というのは、先ほど言った批判的に物事に取り組む姿勢とは違います。
イエスは完全に非難されていることを承知していました。しかし、非難攻撃に屈することなく、ファリサイ派の律法学者に対して批判的に議論を仕掛けました。
【イエスの言葉もそのまま受け取らない】
「丈夫な人に医者は必要じゃない。医者を必要としているのは病人だろう。ぼくは正しい人を招くために来たのではなくて、罪人を招くために来たのだよ」とイエスは宗教指導者たちに言ったのだそうです。
この言葉を文字通りに受け止めて、イエスは私たち罪人を招くためにこの世に来てくださったのだ、と教える教会が多いのですが、まったくの的外れです。なぜならば、イエスはすべての人を罪人と考えていないからです。
先ほども言いましたように、このような考え方は、自分たち以外は罪人だと考えているファリサイ派の律法学者の考え方なのです。
そもそもユダヤ教の言う罪とは、ユダヤ教の神に対する不服従の状態を表す概念的な言葉なのです。ですからユダヤの神の律法に従わない者はすべて罪人だという考え方です。これは、ユダヤ教の指導者たちの偏(かたよ)った思想信条なのです。キリスト教もこの罪概念を受け継いでいるのが大問題なのですが、とにかく、日本の刑法で言う罪とは関係ありません。
荒れ野での修行僧の生活を投げ出して、自分が気づいたことを語り出したイエスが、ユダヤ教の指導者たちの信条を受け継がなかったことは確かです。
ユダヤ教の指導者に言わせれば、荒れ野を出てからのイエスは罪人そのものだったでしょう。しかし、一般庶民に戻ったイエスに言わせれば、宗教指導者たちが言うような正しい人や罪人という分離は存在しないのです。
もしも教会が教えるように、文字通りイエスが罪人を招くために来たと考えていたとすれば、イエスも徴税人やその仲間たちを、罪人に断定していたことになってしまいます。ですから、イエスが、「わたしは罪人を招くために来た」などと、本気で言ったはずありません。
お前たちは病人で私は医者だなどと、もしもイエスにそんな素振り(そぶり)が少しでもあったならば、だれもイエスに着いていかなかったはずです。
ではなぜイエスはこんな言い方をなさったのでしょうか。たぶん、ユダヤ教指導者たちに伝わるように、彼らが信じている言葉遣いを利用しただけです。彼らが罪人だと信じて疑わない人たちをこそ招くためにわたしは来たのだよ、と言っただけです。ユダヤ教の立場からすれば罪人としか言えない徴税人やその仲間たちを招くということはユダヤ教の指導者たちには考えられないことです。しかしイエスには義人と罪人の区別などなかったから、平気で言えたのです。ユダヤ教の神に対する罪という概念にイエスは縛られていなかったのです。
【ぼくたちは】
近頃は難民問題がたくさん取り上げられておりますけれども、宗教的に差別されて行き場を失くしている難民はもっと多く、ここにこそ問題の根があるとぼくは考えています。
ユダヤ教など宗教が教える神に対する不服従の罪などをイエスは払拭(ふっしょく)し、無意味に区別され差別されている「宗教的難民よ、わたしのもとにいらっしゃい」という招きが今日の言葉には込められているのです。