説教の題名を押して下さい

「作り話に踊らされませんように」20200419

5333E308-C454-416B-9400-09C601CE1093.jpeg

「作り話に踊らされませんように」20200419

聖書 マタイ 二十八節〜十五

 

 「お金持ちになりたいですか」

こんな問いかけをたくさん目にします。もちろんなりたいです。という答えをたくさん目にします。

なぜでしょうか。金持ちになったら幸せになれると思っているからでしょう。でも金持ちであっても幸せじゃない人もいます。そうは言いましても、どうせ幸せを感じられないならば、金だけでもあったほうがいいと思うでしょうね。

 でも、現在、新型コロナウイルスに怯えている世の中で暮らしていると、金があっても解決できないことがいっぱいあることに気づきます。

 

イエスの抗議活動は鎮圧された

 イエスは、感染症の病人とその家族を隔離するために設けられたベタニア(嘆きの家)村を拠点にして、首都エルサレムに行進して、権力や政治の批判をしました。

 イエスが宿泊していたベタニア村は隔離村だと言いましたが、多くの方が想像なさるような貧乏な村じゃなかったようです。最後の晩餐の前日にこの村でイエスに注ぎかけられたのは、一瓶三〇〇万円ほどもする香油だったということです。病原菌やウイルスは人を選びませんから、感染者の中に富豪な人もいたんでしょう。ということ新型コロナウイルスに怯えている現代社会に似た状況昔からあったことが判ります。

 イエスは、隔離病棟に勤務する医者や看護師でもないのに、社会が恐れている感染症患者を隔離するために作られていたベタニア村で寝泊まりしていました。そして、社会の差別主義に対する抗議デモの先頭に立っていました。これだけでも反社会的行為者とされていたことが判ります社会秩序を乱しイエス一行の抗議行動はリーダーの逮捕と十字架による死刑によって、たった五日間ほどで鎮圧されてしまいました。

 

【世間と弟子たちの動き】

 イエス十字架に掛けられた事件は、当時の社会にもちょっとした騒ぎを巻き起こしたでしょう。そうであったとしても、ユダヤ全土では、社会的な変化は何も起こりませんでした。庶民は、何事もなかったかのように、年に一度の「過越の祭り」へと流れていったに違いありません。そんな程度であったと思います。

 一方、十字架事件の現場から逃げ出した弟子たちの現実悲惨なものだったに違いありません。意気消沈して、震え上がっていたことでしょう。どこかの家に匿(かくま)ってもらい隠れていたようです。ですから、イエスが復活した日曜日と言えども、何も事件は起こらなかったようです。

 

【イエスの遺体は行方不明】

 ただし、女たちがイエスの遺体を見つけられなかったことは大問題でした。殺害者たちにとっても、十字架に付けて殺したはずのイエスの遺体が行方不明だということは、重大事件でした

 この事件の責任誰にあるのかわかりませんけれども、とにかく責任を取る人は誰もませんでした。弟子たちでさえイエスの遺体を失くしたことに、責任を感じていません。そんなことってありますか。

 マタイ福音書(二十八章十一節〜十五節)には、ユダヤ人の間に広まったうわさ話が記録されています。それによると、番兵数人が、イエスの遺体が無くなっていたことを祭司長たちに報告した、とあります。そこで、祭司長と律法学者たちは集まって協議し、番兵たちを多額の金額で買収し「弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んでいった」と番兵たちに虚偽の報告させたことになっております。それだけだと、番兵が役割を果たさなかったことで罰を受けますから、兵士たちに迷惑がかからないように、総督を上手く説得することも約束した、というような件(くだり)まで書かれています。当局者たちは、弟子たちの責任にしただけです。結局、イエスの遺体の行方は判らぬまま、紛失したことの責任は誰も取っていません

 

【マルコは復活の後を語らない

 マルコ福音書によれば、殺されたイエスは、確かに墓に収められたんですが、復活させられた後、誰にも姿を見せません、若者が、イエスには「ガリラヤで会える」と言った、というだけです。イエスは勝手にガリラヤに行ってしまった、というだけで、これ以降のことを何も告げません。

 あなたも「復活のイエス」に会えるもんなら会いたいと思いません思うでしょう。そうであるならば、ぼくたちもガリラヤへいくしかないようです。「ガリラヤ」まで旅行しなけりゃならないんでしょうか。そういう意味じゃありません。

 ガリラヤは、イエスが育ち、伝統的な律法解釈に限界を感じた地方です。イエスが、自分なりの律法理論を打ち立てて、それを発表する活動を始めた地方です。

 当時、政治や宗教や学問の中心であったのはエルサレムです。そして、伝統を破壊するイエスのような田舎者を抹殺する勢力が活動しているのがエルサレムです。これに対して、地を耕し、家畜を育て、生きる糧(かて)を生産している庶民の暮らししかないところガリラヤじゃないでしょうか。

 イエスを産み、教え、成長させ、支えて来たのが、ガリラヤだと思います。

 そういう意味で、イエスにとってのガリラヤは、あなたやわたしにとってのガリラヤと、イコールありません。地域の名前や地図上の場所が重要なんじゃなくて、生活の基盤があるところだと考えてみればいいんじゃないでしょうか。

 自分の生活の基盤があるところで「復活のイエスに会えるなんて、思っていなかったでしょう。しかし、そういう誰も考えなかったことを堂々と言い切ってしまうのがマルコです。マルコ福音書面白さは、こういうところにあるんです。

 こういう仕方で、マルコ福音書はぼくらが、復活のイエスに会う可能性のあることを提示しているんです。ぼくがマルコ福音書を大切にしているのは、ぼくたちの生活に関係するからです。

 

イエスを再登場させるお話し

 他の福音書では、そうではありません。マルコ福音書の終わりだけでは物足りなさを感じた他の福音書の著者たちは、十字架に掛けられたイエスに新しい復活の身体を与えて、登場させました。

 復活のイエスは、知らぬ間に閉じられていた部屋の中に現れたとか、それでいて霊や幻じゃないことを示すために魚を食べたとか、もうまったく理解できない状態で弟子たちに姿を現した、ということになっています言葉じゃ説明できないほど不思議な身体です。そんな不思議な復活のイエスは、弟子たちや親密だった女たちだけしか、現れなかった、と言います。

 イエスの側近たちだけが、しかも一定期間だけ、復活のイエスに会うことができた、ということは、今は誰も会えないということです。こんなに差別に満ちたことを平気で言います。もしそうであるならば、ぼくたちは復活のイエスに会えないということですから、ぼくたちには関係のないことです。

 殺されたはずのイエスが、再登場する話は、事実ではなくて、フィクション(想像物語)です。ただし、殺されたイエスが再登場するような復活物語が、フィクション(創作話)だとしたら、世界二十二億人以上のクリスチャンがキリスト教の教義(ドグマ・教え)に騙されていことになりますからこれもまた大事件です

 

いい加減な情報は怖い

 話は変わりますけれども、新型コロナウイルスに関する報道もいい加減なものが多いです日々刻々流される報道によって国民の多くが扇動されているように、思えます。

 新型ウイルスの報道により恐れを抱いた人々は、ウイルスの蔓延を抑えるためだという理由で、緊急事態宣言を、いとも容易に受け入れました。

 緊急の危険を避けるためには、議会を開いて決めている時間がない、という理由で緊急事態特措法(とくそほう)が必要だという意見に賛同する人も増えるでしょう。

 強制力を持っていない緊急事態宣言に対してでさえ、従わない人を避難する風潮があるほどですから、これに強制力が加われば、政府の意向に従わない人々への弾圧が、合法的に始まるでしょう。

 話を広げないで、今回のウイルス対策に限定しても、社会の秩序を、これほどまでに、根底から壊すほどの決定をした政府の判断は、確かな理念や情報分析に裏打ちされているのか、疑念が残ります。

 たとえば、インフルエンザ感染症による死者数が日本で二〇一九年に三千人以上昨年九月二日から三十六週間の患者数は七百万人近い、という報告があるのですが、インフルエンザ予防のために、これほどの処置が講じられたことはありません

 新型コロナウイルスによる感染者数(患者数ではない)は一万、死者数208人(四月一七日時点)となっています。致死率が高いことは認めますが、インフルエンザと比較する数字を見つけることさえも容易じゃありませんでした。このように、正確な情報を見つけにくい状況が作られているような気がしてなりません。情報を精査することもできず、マスコミや専門家(なんの専門家かわかりません)の言葉に、簡単に流されているのが現状だと思います。これほどの騒ぎを起こさせたことが今の医療現場の混乱を招いているように思います。

 現代人が報道に扇動されているように、今までの歴史の中に、このようにして人心が扇動されて国民全体が事件に巻き込まれた出来事はいっぱいありましただから、信頼できる情報を知って、それによって自分で判断することが必要です。確かでない情報を信じ込まされると、真実が見えなくなります。

 

ぼくたちは

 偏見や差別を生む律法を否定し、そんな律法を授けた神を否定したために、宗教社会によって殺されたイエスが、再登場して一定の期間だけ、しかも特別な人たちにだけ現れたりするでしょうか。そんなことはあり得ない思います。そんな情報は捏造(ねつぞう・ありもしないことを事実のように作りあげる)されたものですから、信頼してはなりません。そんな神話は、他人を差別させ、人の輪を分断するだけです。この二千年の間に、どれだけの人が、そんな神話に踊らされて来たんでしょうか。捏造された情報は、人を幸福にしません。再登場したイエスを見たと言う弟子たちの言葉に飛びつかないでください。再登場したイエスはあなたと関係ないからです。

 ところで、マルコは、復活のイエスに会える方法を詳しく語りませんでした。なぜならば、あなたが、あなたの生き方の中でイエスのい生き様に出会う可能性を残したかったからです。あなたが幸福になりたければ、手っ取り早い方法を求めないで、ちょっと苦労してでも、真実の情報を掴むようにしてください。

 ぼくたちは、作り話に踊らされないように生きて参りましょう。

1
Today's Schedule
2024.05.03 Friday