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「いいか悪いかを考える必要はない」20200131
「いいか悪いかを考える必要はない」2020年1月31日
聖書 出エジプト記 十二章一節〜十四節
「自分のしたいことをしていいんですよ」と、ぼくはいつも言います。最近は、どんなメディアでも、同じようなことを言っているようです。ところが、好きなことをしていい、と言われても、「「何をしていいのかわからない」と、多くのかたはおっしゃいます。結局、立ち止まって、何もできない人が多いようです。あなたもそうじゃありませんか。
にっちもさっちもいかなくなるのは、何をすれば「いいか」「悪いか」と、考えてしまうからだと思います。「いいか」「悪いか」って、あなたは、誰の判断を気にしているんでしょうか。
ぼくの結論を先に言わしてもらえば、「いい」も「悪い」もないから、ただ、素直に自分のしたいことをすれば「いい」ということです。そこまで言っても、どうも、それが難しいようです。
【誰かの判断に委ねなくていい】
昔のことですが、息子や娘と出かけた時に、外で食事しようということになって、「何を食べたいか」と尋ねたんですが、一番多く返ってきた答えは「何でもいい」という言葉でした。
ぼくの懐(ふところ)を気遣ってくれるのはありがたいんですが、それよりも、ぼくはもっと彼らの願いを訊いてあげたかったんです。それにも関わらず。子どもたちは、遠慮したようです。
子どもが「何でもいい」と返答するのは間違っています。だって、「何でもいい」のは、ぼくの方なんですからね。とは言え、あまりにも高価な物をねだられたら、「それはだめ」と、即座に答えますけどね。なにはともあれ、まず、本当の望みを伝えてもらわないことには始まらないんですが、それがなかなかできないのは、普段の生活の中で、自分の要求は退けられる、と学習して来たからでしょう。「何でもいいよ」と、突然に言われても、素直に表現できないほどに、飼いならされていた、ということです。
他人の意見を、決して素直に聞いているように見えない人でも、目上の者の意見を気にしているんです。家では親の、学校では先生の、職場では上司の意見に左右されて育ってきたことを示す証拠です。
日本人は従順に育てられています。法律で決められたことには、、反対する気持ちがあっても、一応は従うようになっていると思います。言い方を替えれば、法律やお上(かみ)の指令があれば、そのように動かなければならないものだと思い込んでいるということです。消費税反対と言っていた人も、決まれば、しょうがないじゃないか、と従う従順な民族だと思います。犠牲を強いられることでありましても、決定事項には素直に従う人が多いと思います。
日本人の多くは、お上が決めたことには従うことを、当たり前のように思っています。その思い込みが、一番危険な思考パターンです。お上が国民を騙すようなことはない、と昔は信じていましたが、お上は国民を騙すものだ、と今では感じます。決められたことに従うことを美徳だと教えられて来ましたけれど、すでに、その時点から罠に嵌(は)められて来たんだと思います。
たとえば、今は無くなった社会の身分制度も百年ほど前にはありました。誰が決めたかわからない、身分制度がまかり通っていました。日本で、女性の参政権が認められたのは、なんと一九四五年です。それまでは、女性が政治に直接関わることができませんでした。今は法的に男女平等ですけれども、実質的には、多くの場面で、まだまだ男社会です。世界を見渡すと、女が虐げられてる国はいっぱい存在しています。誰が作ったか判らない制度に、知らず知らずの内に従って、差別したり、差別されたりしている人は意外に多いものです。
キリスト教には平等精神がある、と多くの人が思っていますが、勘違いです。キリスト教の聖典である旧約聖書は、神の民と異邦人を明確に分離し、差別しています。今もその差別を続けています。
旧約聖書の出エジプト記には、抑圧されていた民族が救い出される物語が、描かれています。ユダヤ教の最大の祭りである「過越祭」の由来が、「主の過越」という事件として、語られています。
主なる神に選ばれた民族の家を主の使いが過ぎ越して行き、他の民族の家には災いが下る、という物語は、神の民とその他の民族を、明確に分離し、差別しています。
それまで、下に見られていた民族が、実は選ばれた民であったので、圧政から救い出される筋書きで、民族の上下関係が、完全に逆転することを認めさせられます。
ただし、神の民が救われるためには、ただ選ばれただけではだめです。神に対する絶対的な忠誠が求められます。民が救われるためには、神に絶対服従するという契約の中に入らねばならないのだ、と徹底的に教育されるわけです。ここにも宗教の罠があります。
【過越の食事】
今日は、神の名の下に人間を分離差別し、従う者だけを救う旧約聖書の福音、とイエスの福音、との違いを、あなたに、わかっていただくために、「過越の食事」の儀式に関わる部分を取り上げます。
「過越の食事」はたくさんの規定で作られています。家ごとに子羊を屠殺(とさつ)して、その血を、家の入り口の左右の柱と、柱に支えられている横木、すなわち鴨居(かもい)に塗らなければなりませんでした。その肉は焼いて、苦菜を添えて、酵母を入れずに焼いたパンとともに食べなければなりませんでした。すなわち、救われるためには、動物の命の犠牲による代償を必要とするのが旧約の救いです。
【主の晩餐】
キリスト教会には、「主の晩餐」という儀式があります。ちなみに、「聖餐式」と呼ぶ教会が多いですけれども、聖書にある通り「主の晩餐」という呼び名がふさわしいと思うので、ぼくたちは「主の晩餐式」と言うことにしましょう。
さて、キリスト教会の「主の晩餐」は「過越の食事」に由来していると考え、イエスこそが犠牲の子羊だった、と多くの教会で教えています。それは、イエスが弟子たちと食べた最後の食事、いわゆる「最後の晩餐」を、過越祭を始める際の「過越の食事」と混同している教会が多いからです。あなたも、そう思っておられたでしょう。
しかし、イエスの「最後の晩餐」は、「過越の食事」ではなかったという事実を、示したいと思います。
身分制度や差別に反対を叫んでいる教会が多いのはご存知でしょう。しかし、残念ながら、教会が聖典としている旧約聖書は、差別を満載している書物です。そのことを自覚している教会は少ないです。
「過越の食事」は、神の民と異邦人を完全に区別する食事であったように、「過越の食事」と「主の晩餐」を混同して来たキリスト教会は、「主の晩餐」の式で、信者と未信者を平気で差別しています。
「主の晩餐式(聖餐式)」において、教会員と非教会員、クリスチャンとノンクリスチャンを、ほとんどの教会が分離差別しています。ちなみに、ぼくは牧師になった一九八八年から、誰でも参加できる「主の晩餐式」を実施していましたが、そんな教会は今だに少数です。そして、このことのゆえに、当時の先輩牧師たちから多くの嫌がらせを、ぼくは受けて来ました。しかし、ぼくを否定しても、「主の晩餐」が象徴している「最後の晩餐」に、イエスが人を差別する意図を盛り込んでいなかったことは確かで、イエスの意図を否定することはできません。
弟子たちとの最後の食事になることを予感しつつも、そのような場面であるにも関わらず、イエスは弟子を分け隔てしませんでした。裏切り者の象徴として描かれているユダも、食卓にいました。弟子全員が、イエスを見捨てて逃げ去ったんですから、結果的に全員が裏切り者なんですが、そんな弟子たちとイエスは最後の食事をなさったんです。ですから、イエスの食卓は、出来のいい人とそうでない人を分けたり差別する場でなかったという事実は重要です。
当時の社会で罪人と判定され、罪人と呼ばれていた人々と、普段から、イエスは食事なさっておりました。そのことで宗教社会の指導者たちから、批判されていたほどです。ですから、イエスの食卓は差別のない食卓だったことは明らかです。
【最後の食事で差別するはずはない】
イエスが始めた活動の当然の成り行きとして、イエスの最後の晩餐があるわけですから、そこで、人々を分離差別するはずはありません。宗教社会から罪人と呼ばれていた人々と、差別なく交際していたイエスが、その集大成を飾る場面で、それまでの活動を全て覆(くつがえ)すようなことをするはずありません。そうだとすれば、イエスの「最後の晩餐」は、分離と差別を象徴する「過越の食事」じゃなかった、というのが、ぼくの結論です。
【過越の前日の食事】
時系列で考えても、イエスの「最後の晩餐」は、「過越の食事」じゃありません。「最後の晩餐」は、過越祭の一日前の食事でした。
宗教社会全体が「過越の食事」を採る前日(ぼくらの感覚では木曜日の夕食の席)に、イエスは、計画的に、「最後の晩餐」を、なさったんでしょう。「最後の晩餐」は差別のない普段の食事の延長線上の食事であったはずです。そうだとすれば、「イエスの最後の晩餐」を象徴する「主の晩餐式」においては、キリスト教徒であるか否か、ということで、人を分けたりせずに、パンを分けましょう。
伝統をただ守っていけばいいってもんじゃありません。意味を考えて行動なさったイエスの生き様は、律法にも、まったく規制されておりませんでした。
【ぼくたちは】
ただし、いくら自由であっていい、と言われても、ぼくたちは、置かれている状況を、無視できません。
生まれた時も場所も親も、自由じゃありません。たくさんの制約の中で生きているんですから、それ以上に規制される必要はありません。
ただ、置かれた状況の中であっても、何を食べたいか、というような、些細な(でも重要な)望みくらいは湧いてくるでしょう。自分のためにだけじゃなくて、誰かのために何かしたい、というのでも、できるだけ変えたくないというのでも、少し変えたいというのでも、本当になんでもいいんです。
今の状況の自分がしたいことに、素直になれば何か浮かんで来るんじゃないでしょうか。それで「いい」んです。誰も望まないような、突拍子もない事件を起こす必要はありません。今の生活の基盤を変える必要もありません。今のあなたを十分に認識した上で、あなたの心が赴(おもむ)く方へ、小さく一歩踏み出せば「いい」んです。
あなたのすることを「いいか、悪いか」などと判断できるものは何もありません。「神が判断なさる」と言う人もいるでしょう。でもそれは、人が神という名を悪用しているだけです。騙されてはいけません。あなたを利用するために張り巡らされた罠にかからないようにしましょう。
あなたは、あなたの思いを大切にしてください。それで「いい」んです。
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