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「伝統は乗り越えてよいのです」20220213
「伝統は乗り越えてよいのです」20220213
聖書 マルコ 二章十八節~二十二節
ぼくたちは善かれ悪しかれ自覚のないままに多くの慣習や風習に影響されて生活しています。それらが自分の感覚に合わないことで苦労なさっている方が多いと思います。そんな時にイエスはどのように対処なさったのかを今日は考えてみます。
【風習と福音は別物】
今日選んだ聖書の箇所によれば、熱心な宗教指導者たちは「断食」は当然するべきものだと思っていたようです。ところがイエスは「断食」するどころか友人の家に上がり込んで宴会ばかりしていました。イエスの生活が宗教者にあるまじき態度に見えた宗教指導者たちは、人気が出始めたイエスを貶(おとし)めるために「断食」のことでイエスを攻撃しようとしたようです。
弟子たちが断食しないということはイエスも断食しなかったということです。地域の生活習慣に沿(そ)わないイエスに対する批判を込めて「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ君の弟子たちは断食しないのか」と熱心な宗教者たちはイエスに詰め寄りました。
イエスが生活していたのは、厳格なユダヤ教社会でしたから、宗教指導者以外のほとんどの人もユダヤ教の風習を守っていたはずです。
ぼくが子どもの頃暮らしていた大阪では、宗教的な様式が生活の中に染み込んでいました。
新年を迎える前に、父と一緒に神棚を綺麗にした後で正月のための飾り付けをしました。これは男の仕事だと教えられました。
札幌では大晦日からご馳走を食べますが、大阪では大晦日には年越し蕎麦を食べる程度で、元旦に家族揃った食卓で、父が新年の挨拶をしてから祝宴が始まるのでした。
初詣(はつもうで)をするのは当たり前で、義務のようなものでした。お盆の前には母と一緒に仏壇を綺麗にして、お供え物やお花を市場に買いに行き、初日には玄関で迎え火を焚いたものです。お盆の期間中に所属するお寺のお坊さんが来て先祖のためにお経を唱えていただくための準備をするのは母の役目でした。お寺さんがお経を唱えている間は全員が仏壇に向かって正座しなければならなかったのがちょっと辛かったです。ぼくにとっては、お経の短いお坊さんが良いお坊さんでした。
その他、最低でも年に一度はお墓参りをするのも当然の義務のようでしたし、先祖の命日や毎月の月命日には故人の好物をお供えするなど、母はけっこう忙しくしていました。そのような風習に則った生活をしていたので、母は多くの人の命日を覚えていましたし、毎朝のお勤めの時に、仏壇に向かって子どもや孫ひとりひとりのために名前と住所と願い事を唱えていましたので、先祖たちを含めた全員の状況をよく知っていました。これは宗教的慣習によるものですが頭が下がります。慣習にとらわれなくなってからのぼくは何もかも忘れてしまっており、恥ずかしい限りです。そんな母も高齢化により、神棚に手が届かなくなり、仏壇の蝋燭(ろうそく)に火を灯すのにも難儀するようになって、徐々にお勤めができなくなったのを契機に、お勤めから手を引いていくことができました。跡を引き継ぐ者がいないという社会現象に違(たが)わず、岩本家の風習も廃(すた)れました。
宗教的風土を廃れさせてはならないとか、宗教の慣習を新しく創造しなければならないと考える人もいますが、どんな宗教も勃興(ぼっこう)や衰退(すいたい)や台頭(たいとう)を繰り返すものです。ぼくは、変化するものにしがみつかないようにして、現在に重心を置く生き様を大切にするよう心がけているつもりです。
【宗教を統一などできない】
とにかく、組織である宗教は使命として自分の考えを広め残すために、さまざまな戒律を作ったり犠牲を求めます。考えてみますと、そういう決まり事は宗教の数だけ、地域の数だけ、家族の数だけ、人の数だけあるのですから、これこそが本物だなどとは誰にも言えません。つまり、宗教的な考え方は基本的に千差万別なので、統一することなどできないのです。ですから統一しようと試みることが無謀であり、無数の差別を生む源(みなもと)になっているのです。
ところが、ユダヤ教の指導者たちは自分の考え方を庶民に指導していました。その一つが今日の話題に取り上げた「断食」です。
「ヨハネたちもファリサイ派も断食するのに、なぜ君の一派は断食しないのか」という批判は、全ての人を相手にできる批判でないにもかかわらず、イエスに議論をしかけたのです。
弱い人なら、専門家たちの勢いに負けてしまったでしょう。しかし、イエスは柔(やわ)な人じゃなかったので、「ぼくは古いしきたりに拘(こだわ)ったりしないで、新しい生き方を模索(もさく)しながら、伸び伸びと生きていくつもりだ」と言い返しました。
多くの方は、いやいやそんな言葉はどこにも書いていないと反論なさるでしょうが、二十一節と二十二節でイエスが言った言葉の意味はこんなもんです。
【教会の挿入句】
十九節と二十節の「婚礼の客は断食しない」という反論部分は後の教会が付け加えた言葉でしょう。すなわち、イエスがいのちを奪われた時には弟子たちも断食せざるを得なかった事実を反映している教会の言葉だと思います。
「主賓(しゅひん)がいる間は断食できないが、主賓が奪われた時には当然断食する」とイエスが本当に言ったとすれば、「断食は重要だけれども、今は断食する時ではない、と言ったことになり、断食は必要なものだという宗教家たちの考えにイエスも賛同していることになってしまいます。後に形成された教会が、キリスト教の主であるイエスも断食を大事なものだと考えておられたけれども、今はその時ではないとおっしゃっただけだ、と言って、自分達の教会が周りのユダヤ教徒から攻撃されないために、この言葉を挿入したのだと思います。こんな言葉を挿入したために物語の流れが途切れて、二十一節以下のイエスの言葉の解釈を曖昧(あいまい)にしたのです。ここをきっぱり切り捨てれば、イエスの言葉の意味が明確になります。すなわち、「だれも、古い服に新しい生地を縫い付けたり古い皮袋に新しい葡萄酒を入れはしない。そんなことをすればどちらも無駄になる」と言ったイエスは、古いしきたりに関わるつもりはない、とキッパリ言い切ったのです。イエスの率直な語り口を弱めてはなりません。いまだに、イエスの福音に関係のない「断食」を推奨する牧師が後を絶たないのは、ハッキリしたイエスの意見を、教会が挿入句によってぼかしてしまったからです。
【ぼくたちは】
ぼくも、身体のために、たまには断食したほうが良いのかもしれませんが、宗教のためには断食などしません。皆さんにもすすめません。宗教的な断食など、イエスが教えた福音と何の関係もないからです。
まだまだぼくたちは、福音と関係のない多くの既成概念から逃れられていないようですから、これからも、ひとつひとつ丁寧に考えなおして伝統を乗り越えて自由になっていきましょう。