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「職と食は同等です」20230115
「職と食は同等です」20230115
聖書 マルコ 二章十五節〜十六節
先週は全員でいただく食事である「主の晩餐」についてパウロが書いた手紙からパウロの意見を紹介しました。コリント教会では「主の晩餐」の席で、満腹し酔っ払っている者がいるかと思えば、遅れて来たために何も食えない者がいたのです。それを聞いたパウロは、遅くにしか来れない人を待っておれないほど腹が減っている者は、「家で食って来い」と怒っていました。
そもそも「主の晩餐」というのは「イエスの最後の晩餐」を記念する食事です。その特徴を知ろうとすれば、福音書を調べるしかありません。という理由をつけて、いつもの福音書に戻ってくるのであります。
さて、興味深いことに、福音書には「最後の晩餐」だけでなく、「イエスの普段の食事」の様子がいくつも記録されております。
「福音を伝えるための書物」に、何故、イエスの普段の食事の様子が、いくつも描かれているのかということに、ぼくは疑問を持ちました。福音と食事に何の関係があるのか、みなさんも不思議だとお思いになったでしょう。
【本の題は後で付けられた】
ちなみに、今日、何度も言いました「福音書」という書物の題名が「マルコによる福音書」の理解を難しくしているということをまずお話ししておかなければなりません。
簡単な事実を言いましょう。何度も言いました「福音書」という呼び方は初めから付けられていたのではなくて、後で付けられた題名です。
出版される本の題名を決めるのは著者ではなくて、出版者や編集者であると聞いています。ちょうどそのように、今日読んでいただいた書物も「マルコによる福音書」などという題名は著者自身が付けたのではありません。お手元の聖書の目次を開いていただくと、旧約聖書に三十九、新約聖書に二十七、合計六十六文書の名前が書かれております。このすべてが、後の編集者が付けた名前です。ですから、はっきり言いますと、題名は編集者の解釈なのです。この事実をまず理解しておいて下さい。
ちなみに「聖書」という呼び方も編集者たちが背表紙に、勝手に付けた題名です。
もう一つ、マルコによる福音書の著者がマルコであるという確証はありません。著者の署名はないからです。真正のパウロの手紙の著者がパウロであることは確かです。とは言いましても、手紙ですから、何々への手紙などという題名は付いていませんでした。手紙の書き出しに、何々様と書くでしょうけれども、何々様への手紙などと誰も題名を付けないのと同じです。
ですから、目次に書かれている名前は全部編集者集団が、後で付けたものです。
【福音書という先入観から離れて】
さて、いわゆるマルコ福音書にはイエスの生き様が書かれています。この文書を誰かが福音書と名付けただけです。ところが、聖書を手に取った人は、本文にはなかった「福音書」という題名にまず強く影響されます。内容は何か判らないけれども、これは福音書なんだ、という先入観で読み始めます。そうすると、何が福音なんだろうか、一番重要な福音とは何だろうか、と考えながら読むことになるでしょう。
そんな気持ちで読み始めると、運の良いことに、というか、実は、間の悪いことに、すぐに、イエスが語ったとされる言葉、すなわち「悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ一章十五節)と書かれてるイエスの吹き出しの言葉に出会っちゃいます。こんな言葉に出会っちゃうと、当然ここにとらわれちゃうのも無理ありません。
福音とは何か、という疑問を持ちながら読み進めていくと、福音に関係あるとは思えないような出来事がいっぱい書いてあることに気づくはずです。特に、イエスが食事する風景が何度も描かれていることに驚くんじゃないでしょうか。おかしいと感じましても、イエスがいろんな人々と食事した物語を、この文書の著者が、いくつも書き残したのは事実です。ということは、この著者にとって食事の記事は、この文書の構成になくてはならない内容だということです。
そこで、これは「福音書」なんだから、福音という言葉が大切なんだという思いを、ちょっと脇に置いて、イエスの食事という課題に取り組んでみましょう。すなわち、福音書なんだから、という先入観にとらわれないで、この文書を読んだほうが、著者が言おうとしていたことが、ダイレクトに伝わってくる気がするからです。
【最重要課題は食うこと】
聖書を離れて、常識的に冷静に考えれば、生活における最重要課題は飯を食うことです。
仕事に追われている現代人が飯を食う時には、仕事の合間に早く済ませて、早く仕事に戻ろうとするでしょう。デリバリーだとかレトルトだとか、包装紙を破るだけで食べることができる食品を選んで食うことが多くなるでしょう。このように、仕事の合間に飯を食う生活は、今や当たり前になっています。けれども、これはとても偏(かたよ)った生活だと言わねばなりません。このような生活に疑問を持って、生活を改める必要があると感じています。当たり前を疑って、逆説的に考えてみたらどうなるでしょう。すなわち、食事の合間に仕事をする、と考えてみたら、生活に張りが出るんじゃないかと思いますがどうでしょう。食うということは、それほど大切なことで、実は生活の中心に置くべきことです。
連休の期間中、ずっと仕事をしないで済ますことはできますが、年末年始の十日間、何も食べずに過ごすことはできません。水も摂らないなんてことになると死んじゃいます。そのように、大昔から生活の中心は食うことだったのです。食べることは生きることと一体なのです。
【イエスの食事と福音】
当然、イエスも食事しました。何を食うか、誰と食うか、いつ食うか、どのように食うか、これらのことは、今日選んだ書物の中でイエスが伝えた言葉と同等に重要な役割を持っているのです。最後の晩餐を含むすべての食事が同じように大切だから、著者はイエスの食事風景をたくさん描いているのに違いありません。
ファリサイ派が罪人と呼ぶ人々とイエスは食事しました。罪人の中に入っていって彼らを教え諭そうとしていたからでも、彼らを差別なさらなかった、などということでもありません。
ユダヤの宗教社会において、イエスは罪人だと断定されていたのであって聖人じゃありませんでした。しかし、イエスは、宗教社会から断罪されていた他の人々と一緒に輪になって食事し、理由なく断罪される生活を堂々と拒否したのです。自分勝手な社会を作ってふんぞり返っている人たちから断罪され、罵倒されても、誰もびくつかないで、堂々と一緒に飯を食ったのです。
この生き方のすべてが福音です。福音書のどこか一部に福音が書かれているのではありません。言葉で表せないから、言葉で表す必要もないのです。共に食って生きるという食事風景に現れているように、イエスを含む罪人と断罪された人々の生き様のすべてが福音なのです。
【ぼくたちは】
ぼくたちも、理由のない断罪に負けず、職と食を一体化した生き様を大切に、堂々と日々をすごすことにいたしましょう。