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「他人のせいにしない」20200913

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「他人のせいにしない」20200913

聖書 出エジプト記二十章一節〜七節

 

 今日も、聖書を読むために基本について考えていきましょう。なにをするにも基本が大切です。勉強の基本が読み書き算盤(そろばん)であるように、基本ができていれば、いろんなことに応用できます。

 ユダヤ教という宗教にはたくさんの律法(決め事)があってややこしい、と思いがちですけれども、基本は十戒です。主イエスの祈りと同じように、単純なものです。人間生活の基本ですから、神を登場させなくても、言い得ることです万事具体的な事についても、十戒に照らし合わせれば解決できる事ばかりです。だから今日は、基本として十戒を見ます。

 

【神の名を利用するな】

 モーセの十戒と呼ばれていますけれども、モーセ自身が書いたんじゃなくて、後の時代に書かれたんだと思いますが、とても素晴らしい内容です

 まず初めに「私の他に神を作っちゃならない」とあります。見るもの聞くもの、どんなものも神にしちゃならないということです。こう命令する神も見え聞こえもしません。要するに、生活を営む上で、神を登場させてはならないということです。言い換えれば神は必要ないという意味です。人でも物でも、支配するものを作っちゃならない、誰も他者に支配されちゃならないというのが大原則です。

 そして、「神の名をだりに唱えてはならない」という言葉が続きます。これは、誰も神に代わって物申す人になっちゃならない、という意味です。

 自分が神だとは言わないまでも、神の代弁をするということは、神に成り代わるということですから、最初の大原則に反します。ですから、自分が言うことを、神が言ったなどと言っちゃならないという意味です。ところが、モーセは常に、神はおっしゃった、と言い続けて、神の命令を民に伝える立場にいましたここから判ることは、「神の名を無闇(むやみ・分別なく)に利用しちゃならない」という戒律を破ってしまっているのは、モーセ自身です。

 モーセのように、特別に選ばれた人だけは、神の言葉を聞く事ができたのだという物語は眉唾物(まゆつばもの・信用できない疑わしいこと)です。何しろそう言っているのはモーセ本人だけなんですから、信用ません。

 昔のことだから、という理由で許されているのならば、むかしの神話の中だけで可能な話なんです。ぼくらの一般常識で考えてみてください。もしも、現在において、誰か一人だけが、「私は神の命令を聞いたから、私の命令に従いなさい」と言ったとしましょう。そんな人の言葉を、信じて行動する人は、多くはいないでしょう。昔も今も同じで、そんな言葉に多くの人は従わないはずです。

 しかし「むかしむかし神モーセに語られた」と言えば、信じる人もいるだろう、というだけのことです。ですから、このような神話の語り口というのは、人を騙(だま)すためです。このような特徴を、心に留めておいてください。昔も今、特別な一人だけが神の言葉を聞くなんてことはありません。

 

【アブラハムの出発】

 モーセは、神に命じられた通り、民を率いてエジプトから逃げ出した、と言いますように、モーセ神話に登場する神のイメージは厳格です。しかし、アブラハム神話に登場するキャラクターである神のイメージは、おおらかです。

 アブラハムは、七十五(創世記十二章節)父の家を離れ独立しました。神の声を聞いたから、アブラハム家を出たのだと説明されていますけれども、アブラハムが実在した人物であるならば、の声など聞こえませんから、自分の考えで出かけたに違いありません。後々にアブラハム物語を書いた人がそのように神話化しただけです。

 アブラハム神話の神は「私が示す地に行きなさい」(創世記十二章一節)とうものの、行き先を厳しく規定していません。東西南北を見なさい、見渡す限りお前のものだ、この土地を縦横に歩き回りなさい。それを私はあなたに与える(創世記十三章十四節〜十七節)などと言っております。行き先をモーセにいちいち示したキャラクターとはずいぶん大きな開きがあります。

 

【どこまで行っても良い】

 「事業に手を伸ばしすぎたから倒産したんだ」という声をよく聞きます。支配者が一代で作ったマンモスな帝国が、短期間で脆(もろ)くも崩れ去ってしまった、という例が歴史の中にいくつもあることでも、これは証明されている通り、人にはそれぞれ、自分の体の届く範囲(影響を及ぼせる範囲)というものがあります。それ以上に手を伸ばすと、管理できなくなるからです。

 アブラハムが欲深い人間であったならば、見える限り、どこまでも行って、陣地取りをしようとしたかもしれません。しかし、アブラハムは、足元を掬(すく)われるほど遠くへは行きませんでした。

 

【気に入った場所】

 アブラハムは、ヘブロンにあるマムレの樫(かし)の木の所にきて住んだ(同十三章十八節)ということです。ちゃんと自分の好きな景色が見える場所に行って腰を据えたんです。後に妻サラが死んだ時に、その土地に墓を買い、埋めておりますし、自分も同じ洞穴式の墓に埋葬されている(同二十五章七節〜十節)ことから、そこが彼のお気に入りの土地だったことがります土地の所有者から、お前にあげる、と言われたらしいですが、後々問題にならぬように、アブラハムは、そこを買い取って(創世記二十三章)います。とにかく、自分の気に入った所に住んだんです。

 

【自由を勘違いしている人が多い】

 自由だと言われても、まるっきり自由なんてことは、現実にはないんです。その時にその場所でその親からだけの条件で生まれた、という事実は変えようがありません。天文学的数字分の一という確立で、計り知れないタイミングで生まれたということなんです。誕生日おめでとう、と言われる訳が判りますよね。これには本人の意思なんてものは全く関係ありません。ぼくたちは与えられたものを、そのまま受け取ることしかできないんです。そういう土台に立った上で、選ぶことができるのは、自己理解ができてからです。それまでには、時間がかかる人もいるでしょう。自分のやりたい事が判るということは難しいようです。今ね、なんでも良い、なんて、安易な誘いの言葉が流行っているんですけれども、選べる道が多すぎます。

 テレビのコマーシャルを見ていて思うんですけれど、商品がありすぎますでしょう。スーパーマーケットなんかに行きますと、商品が、薬から毒まで何万点も並んでいます。本や文房具を売っている店舗なんかもすごいですよ。何種類の商品があるんでしょうね。揚げたてのドーナツまであるんですよ。具体的なお店の名前は避けますけれども、(「ピー」という音響と共に)「コーチアンドフォー」なんかに行きますと、本も文房具も山のようにあります。もちろん山積みされているんじゃなくて、商品が整然と並べられているんですが、多すぎて迷います。ボールペンの棚だけでも、何百本もあるでしょう。

 昔は、ボールペンというものにもなかなかお目にかかれなかったんです。お父ちゃんが会社で使っていた菱形が三つ合わさったような印のボールペンとか、トンボの絵が書いてあるボールペンとか、ありましたが、すぐに、くっきりとした線が書けなくなったもんです。ボールペンの命である先っちょの小さいボールに傷がついて、そこだけインクが載らないという症状です。また、ちっちゃめのボールが入っているやつは、インクの切れが悪くて、インク玉ができて、書類や手紙の大事な所に来ると、べちゃっと、インク玉が付くんです。とにかくすぐに使い物にならなくなるものが多かったんです。

 しばらくすると、フランス製のBICというのが出てきました。柄(え)の部分が、透明のプラスチックで、中が見えることを強調していたんです。宣伝文句も覚えています。「インクが見えなくなるまでかけます」当たり前ですけどね。昔はね、日本の(ピー)のボールペンは、鉛筆のような木の柄でしたから、中身が見えません。書けなくなったなあ、インクがなくなったのか、と思って、芯を取り出してみると、しっかり残っている事が多かったんです。

 ボールペンの命であるボールと、命のボールを優しく受け止める部分の命が、インクの命よりも早く尽きてしまうことがよくあったんです。そこでBICボールペンは、インクが見える内は書けまっせ。インクが尽きるまで、先っちょの命は尽きまへんで。ということだったんです。

 何を言いたいかと言いますと。これしかないで、というものがあったんです。迷わずにBICを買えばよかったんですが、今は、ボールペンがどっさり並んでいる棚を見ただけで、年寄りは帰ります。薬屋の名前書いた二色ボールペンが透明の袋に入ったまま、どこかの引き出し入ってたやろ。あれをもう一回、探してみよか、てなもんです。何して良いか、選択肢が多すぎるのも困ります。

 

【やりたい事が判らない時には】

 やりたい事が判らない人でも、やりたくない事なら判るかもしれません。それならばやりたくないことはやらない、という意思を貫いてみるのも良いかもしれません。

 学校でなんか勉強したくないんだ、と判れば、どうすれば学校へ行かなくてもよくなるか、早く起きて学校へ行きなさいと言う親の言うことを聞かないようにするにはどうすれば良いか、とかね。いろいろ考えて策を練らなきゃなりません。意思を貫くよりも学校に行く方が簡単かもしれません。とにかく自分の道を進むことは困難を伴います。

 

【ぼくたちは】

 迷いのある人は、聖書を読むと安心できます。神話の中での話ですけれども、アブラハムは七十五になって独り立ちしたんだそうです。ぼくの歳でもまだ可能性があると思えます。若い人ならまだまだ大丈夫です。「もう二十歳になったんだからしっかりしなさい」なんて、言われても平気ですね。「お母さん、聖書を読んでごらんなさい。創世記に拠れば、アブラハムが父の家を出たのは七十五歳ですよ」なんて言えたら、かっこいいでしょ。

 学校へ行かなくても、それくらいのことは知っておかなきゃなりませんけれど自分のしたくないことをさせられないためにならば、それくらい頑張って勉強してもいいでしょう。知りませんけどね。

 ひとりになって、詐欺師に騙されないためにも、昔で言う読み書き算盤くらいは、修めておく必要はあります。中学校までに習う知識を自分のものにすれば、あとはどんなふうにでも発展させることができます。

 十戒には「神に従いなさい」なんて書いてありません何をやっても良いんです。ただし、神の名を利用しちゃいけない。つまり他者のせいにしないで、自分の責任でやりなさい、ということです。これこそ、「神の名をみだりに唱えてはならない」という言葉の意味です。とにかく、足元を見て、自分のできることを自分の責任ですればいいのだと、十戒はあなたを後押ししてくれているはずです。

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