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「モーセは先祖たちに後押しされた」20190825
「モーセは先祖たちに後押しされた」2019年8月25日
聖書 出エジプト記 三章 一節~十五節
世界中のどこにでも特別なところは作れます。楽しい時を過ごすことができれば、そこは特別な所になります。今日の物語で、モーセには見分けのつかない所が特別な所だったようです。
伊勢神宮に入る橋を渡った所にあるような立派な鳥居でもあれば判りますが、手前と向こうに何の違いも無いところで、「そこは聖なる所だ」と語りかける声を、モーセは聞いた、と言います。こういう表現が、とても好きです。なぜならば、普段の生活と何も変わらないところで、モーセは声を聞いたというんですから、世の多くの宗教組織が作っている聖なる場所という考え方に、完全に対抗しているように思えるからです。
荘厳で金ピカの物で飾られたサン・ピエトロ(聖ペトロ)寺院に行かなくても、現在ぼくらがいる所を聖なる場所だと言えば、ここが聖所になるという考え方が、皆さんが手持ちの聖書の中に書いてある、ということが愉快です。
しかも、そこは特別な場所だから履物を脱げとモーセは言われました。土足厳禁だなんて、靴を履いたままでベッドに倒れこむアメリカ映画とは異なっていますでしょう。とても東洋的と言いますか、アジア系です。これも好きなところです。
【モーセの体験】
羊飼いをしていたモーセは、仕事の途中で、目にした珍しいものに引き寄せられて行ってみると、突然に語りかけられたんです。
モーセはそこで神からの召命を受けた、という昔からの考え方は思い違いである、と少し前の説教で話しました。召命という言葉も、使うべきじゃない、と言いましたし、モーセは神の声を聞いたんじゃなくて、エジプトでこき使われている奴隷の叫びに気付いたんだ、と話しました。覚えていてくだされば幸いです。
【神の名は曖昧(あいまい)】
この物語で、神は「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とモーセに名乗りを上げてから、「君がイスラエル人たちをエジプトから連れ出せ」と語ります。事態を飲み込めなかったモーセは「あなたは誰ですか」と直接訊けなかったので、「先祖の神からの命令」を伝えた時に、「その(神の)名は何か」と問われるでしょう。「何と答えたらいいですか」と、回りくどい方法で尋ねております。
返って来た答えは「わたしはある」などと翻訳されておりますように、意味が判りません。翻訳のしようもない言葉だったんです。
尋ねてはみたものの、答えが判りません。名前ぐらいは当然あるだろうと思っていたでしょう。しかし、「わたしは、有るという者だ」とか「(他を)存在させる者だ」とか言われて、ますます困ったでしょう。なんか誤魔化されているようにも感じます。はっきり言える名前も無いのかいな、とがっかりしたようにも思えます。
さて、このモーセは、エジプトで、パロの娘に拾われて育てられた人です。パロの娘と言っても、ぼくらが考える親子関係じゃなかったでしょう。何十人もいた娘の一人だと考えた方が現実に近いと思われます。それにしても、エジプトで育てられたからには、エジプトの宗教の神々の名前や特徴を知っていたに違いありません。エジプトの神々でも名前がある。にも関わらず、モーセに語りかけた神は、名前もはっきり告げられないかったことにモーセは当惑したでしょう。しかし、これこそ面白い表現です。世間一般の神という概念じゃ語れないということでしょう。
【四十年前】
話を四十年ほど遡りますと、このモーセは青年の頃にエジプト人を殺した廉(かど)でパロ(エジプトの支配者の総称)の下から逃げて、シナイ半島のかなり南部まで行ったようです。学者によっていろんな説があるので、場所は特定できません。とにかく、相当遠くまで逃げた所で、偶然にその土地の女性を危険から救い出したことをきっかけに、家に招かれて一時を過ごしました。
モーセは心機一転して、救い出した娘と結婚し、舅(しゅうと・妻の父)エトロの羊を飼う者になりました。エトロには息子がいなかったので、モーセは婿養子(むこようし)になったんでしょう。そして、舅エトロはミデアンの祭司だったと書かれています。わざわざこの情報が書き込まれているのは、それなりの理由があるからだとぼくは考えております。ミデアンはアブラハムの息子の名前です。妻サラの死後にアブラハムはケトラという女性と再婚して、六人の子をもうけたことになっております。その四番目がミデアンです。
アブラハムは、死ぬ前にケトラが生んだ息子たちに贈り物をして東の方に送り出しイサクから遠ざけた(創世記二十五章六節)と書かれています。
ですから、結果として、モーセは、アブラハムの子孫の下で世話になったことになる訳です。
そして、モーセは、ミデアンの祭司である舅エトロから宗教の手ほどきを受けたんじゃないでしょうか。ミデアンの神に名前があったのかどうかわかりませんが、アブラハムの宗教を受け継いでいたならば、ミデアンの神に名前が無かったとしても不思議じゃありません。
【アブラハム、イサク、ヤコブの神】
創世記には「エロヒーム」と「ヤハウェ」と呼ばれる神が登場しているんですが、今日の箇所で、初めてモーセは「ヤハウェ」を知ったことになっています。
ぼくたち聖書の読者は、創世記に登場する神を知っています。そして、その神を何の疑問もなく受け入れて来ました。しかし、モーセの時代に創世記という書物はなかったんです。創世記が書かれたのは、かなり後の時代です。もう少し詳しくお話ししましょう。
エジプトで奴隷になっていた人々を率いて、モーセがエジプトから逃げ出した経験がまずあって、それを救いの原点としてユダヤ教が構成されていると思います。そうだとすれば、まず、実際のエジプト脱出の事件が、創世記が書かれるずっと以前に、あった訳です。創世記には人類の歴史の初めが書かれているんですが、その執筆年代は、ユダヤ教が確立した時です。
新約聖書の福音書はイエスの物語を伝えているんですが、著作年代は、パウロの手紙群の著作年代よりもずっと後であることと似ています。
とにかく、モーセは自分に語りかけたのは、それまでの社会で認められていたエジプトの神々でも、その他の神々でもなくて、「先祖アブラハム、イサク、ヤコブ」が関わって来た神だと言います。
しかし、その名もわかりません。当然名前ぐらいはあるだろうと思って、聞き出そうとしたんですが、「わたしは、有るという者だ」とか「(他を)存在させる者だ」とか、わけのわからない言葉を教えられただけです。訳が判りません。はっきり言えない、ということが意味深い所で、非常に面白い所です。やはり、既存の宗教の神に対する抵抗の姿勢があるとぼくは思っています。
これに比べて、ぼくたち日本人は、神という言葉を平気で使います。天地の造り主や日本の天照大神(あまてらすおおみかみ)を想像する人もいるでしょう。山や大岩や大木に象徴される神や、火や水を司る神様や、様々な事象を受け持つ神々を想像する人もおられます。
ですから、一言で神と言っても、個々人が思い浮かべる神概念は全く異なっていることが判ります。こんな状況で「私たちは唯一の神を礼拝しています」と言っても全く意味をなさないと思います。違うでしょうか。
【モーセを後押ししたのは先祖の人々】
モーセは神を見ていません。声も耳で聞いたわけじゃないでしょう。何が自分を突き動かすのか、その自覚もなかったでしょう。だから、物語には「神」という言葉が出て来ますけれども、モーセ自身は、自分を突き動かすものを、「いわゆる神」と表現できなかったに違いありません。何とか使えた表現は「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」でした。ところで、この表現に隠されている深い意味を、解き明かしておきます。多くの人は、神が人間を動かすと思っておられます。けれども事実は全く逆です。神が先祖たちを保証しているんじゃなくて、先祖たちが神を保証しているんです。あの先祖たちが関係を持っていた神ならば、大丈夫だろう、という意味です。
確かな繋がりがある先祖(アブラハムやイサクやヤコブ)たちを突き動かしたものと、モーセを突き動かしたものは、同じだということです。「神」という言葉には、確かなものは何もありません。モーセの思いを保証し、後押ししたのは、先祖たちです。
神という言葉を使わないで表現するのは難しいんですが、「あなたの理念」を後押ししてくれるものは過去をしっかり生きて、今の命に繋いでくれた先祖たちだということです。事実は、神が人間を後押しするという今までの教えと全く逆です。
【ぼくたちは】
イスラエル民族の解放者へとなるようにモーセを促(うなが)し、後押しした考え方は、先祖たちの考え方です。自分を後押しする「考え方」を、モーセは「神」と呼びませんでした。名前も与えずに曖昧(あいまい)な表現に留めたモーセはとても聡明な人です。
先週の説教でも言いましたように、はっきりと言わなかったことが幸いしたんです。
解明されていない物質であるかのように、宇宙のどこかに、神がおられて、全てを決定しておられるという教えに、数十世紀もの間、人類は支配されてきました。しかし、そのような神が存在しないことは、現代科学で明らかにされました。
宇宙の歴史の中では、短かずぎる歴史しか持っていない人間の言葉で、表現できないことは山ほどあります。だから、ぼくらにできることは、無理に表現しないことです。
今まで多くの支配者は、自分に都合のいい概念の神をたくさん作りました。しかし、その支配から逃れる生き方を選んだ人々の物語が、聖書には残されております。ぼくらが大切にしなきゃならないのは、そんな人々(先祖たち)の物語です。