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「あなたを御招待」20210509
「あなたをご招待」20210509
聖書 マルコ福音書 二章十五節〜十七節
【イエスは徴税人の家に招かれた】
「イエスがレビの家で食事の席に着いておられた時、多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた」と書かれています。
レビはマタイ福音書十章三節に徴税人マタイという名で紹介されている人だと思います。税金を取り立てる役割だったので、嫌われていたはずですが、良い収入を確保していたことも確かでしょう。また、なりたくても、誰もがありつける職じゃなかったと思われます。
そのような徴税人レビの家で食事しているイエスの様子を見たファリサイ派(分離派)の律法学者は「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事するのか」と批判したのです。
これを聞いたイエスは「元気な人は医者を必要としない。医者を必要としているのは病人だ。わたしが来たのは義人を招くためじゃない。罪人を招くためである」とおっしゃった、とあります。
気付かない人が多いのですが、これらの言葉は、受け取り方によって逆の意味になってしまいます。そういう意味で微妙な表現ですから、注意して読みましょう。
超(チョウ)素直に読む人は大きな誤解をしていると思います。
どういうことか説明させていただきます。
自分を医者に例えたイエスが、嫌われ者である「病人」や徴税人のような嫌われ仕事をしている「罪人」を招くために来た、と心底から言ったのだとすれば、イエスは、義人と罪人を明確に分けているように受け取れます。ほとんど誰もがそう考えていると思います。
確かに、「元気な人」と「義人」が、対(つい)になっており、また、「病人」と「罪人」が対になっておりますから、病人や罪人の相手をするために来たのだと受け取れます。けれども、しかしはたしてそうなのか、そうではないだろう、とぼくは考えております。
【論争的な言葉】
イエスが語った言葉は、いわゆる論争相手である律法学者に対して、言った言葉です。
ぼくたちでも、論争相手には嫌味を言ったりしますし、わざと逆の表現を使うこともあります。そのように、イエスも律法学者たちの考えを意識してわざとそのような表現をしたのだと思います。
そうでなければ、イエスの言葉を聴いた徴税人たちが怒りだしたんじゃないでしょうか。
徴税人たちの立場になって考えてみてください。レビの家に集まっていた徴税人たちが、イエスの言葉をそのままの意味で鵜呑みに聴いたらどんなに嫌な思いになるでしょうか。
イエスが「こいつらのような罪人を招くために来たんだよ」と豪語したとすれば、そんなイエスの下に集まってきて、楽しく飲み食いなど続けることはなかったでしょう。その場を蹴ってさっさと出て行ったに違いありません。
イエスが、義人だとか罪人だとか言って、自分たちを差別などしない方だと感じたからこそ、普段から罪人として差別されていた人々がイエスと逢うために、徴税人レビの家に集まって来たんだと思います。
イエスの下に集まっていた人々は、たとえイエスが、「ぼくは罪人を招くために来た」などと言ったとしても、文字通り受け取っていなかったということが判ります。
【教会は真面目に考えすぎた】
教会は、イエスは罪人を招くために来られた方である、と信じて、疑いもしないことを、ぼくは不思議に感じます。
イエスは、伝統的な基準に従って、人を義人と罪人に分けていたとは思いません。もしもそんな分け方をしていたならば、先ほどから申しておりますように、徴税人たちは集まらなかったはずです。
そうであるにもかかわらず、教会ではイエスは罪人の身代わりになって死んでくださったのだと教えます。イエスが身代わりになってくださらなければ、神は罪人を赦してくださらないからだ、と信じ切っているからこんな論法が登場するんです。
神は身代わりの犠牲の供物をしなければ赦してくださらない、という考え方も、先週も言いましたように、人間の考え方に過ぎません。
こんなことを勝手に神の名を利用して語っている間は、普通の生活をしている庶民に、教会が平安を与えることはないとぼくは考えております。だから、ぼくはイエスがお語りになった言葉を、それが伝統にそぐわなくても説教しているつもりです。なぜなら、イエスが語った福音(本当の情報)は、人間を思い込みから解放して平安をあたえると思っているからです。
しかし、伝統的でないことを伝える、というのは本当に難しいことだと思い知らされております。なかなかいい説教だと思って聴いてくれる人が少ないことが悩みです。
【善い説教者】
こう見えても、ぼくは常々、善い説教者になりたいと思っているんですよ。一つの宗教に精進していない普通の人が聴いて納得できる説教をしたいと望んでおります。
説教を作る時に一番見習うべきはイエスだと思っています。それは、なにしろイエスはぼくらの師匠だからであります。ところが、イエスの説教が判りやすかったかといえば、そうではありません。むしろ、普通の人々にも伝わりづらかったと言っていいでしょう。
というのは、イエスは世間に通用している当たり前の話をしませんでしたし、時には、聴衆が理解できないほどに、とんちが効き過ぎた話をしている、と思えるからです。
しかし、しょうがありません。イエスは世の中の常識と言われるものを疑ってかかった人ですから、イエスの語った言葉も、常識ハズレにならざるをえませんでした。伝統や常識に合わない話は、聴衆の腑に落ちるまでにはなかなか至りません。
そんなイエスを師匠に持っているもんですから、ぼくの説教も、簡単な筋書きであるにもかかわらず、聞く人の腑にまではなかなか落ちないんでしょう。やっかいなことに関わってしまったものだと、自分を憐(あわ)れんでおります。イヤイヤ、この言葉も、文字通り受け取ってもらっては困ります。本当は、憐れんでなんかおりません。そのことに誇(ほこ)りさえ持っているのでございます。
とにかく、伝統的で常識的なことを話しませんので、受け取る側にとって難しく感じると思いますが、内容的にはごく単純なことですから、できるだけ先入観を持たないで、反発しないで聴いていただきたいと思います。
【興味を持っていただきたくて】
少しでも興味をもっていただきたくて、説教の中にも笑いを取り入れようとするのですが、これも裏目に出まして、笑ってもらえるだろうと思う所で笑ってもらえない、ということがよくあります。いわゆる「すべった」というやつですね。説教で笑わすなんて不謹慎だ。「笑わせるな」という反感を買うこともあるんです。楽しい笑いじゃなくて、嘲笑(ちょうしょう・あざけり)さえ聞こえて来そうであります。
けれどもめげません。笑ってもらいたいというのが大阪人の性(さが・生まれつき持っている性格)でありますので、しょうがないんですね。笑ってお納めいただきたいと思います。
面白い話といえば、ぼくは上方落語を思い浮かべます。話の取っかかりというか、聴衆をひきつけるために枕(まくら)という部分があります。「掴(つか)み」ともいいますけれども、話の頭に付けるものなので枕というのでございますが、説教にも枕をつけようとするのでございます。そして本題には、有名なお話を持って来て、できるだけ楽しく意義ある時間にしたいと思っているのであります。
何度も申しておりますように、古典落語のような定番の説教を古典説教のようにしたいのでありますが、伝統的解釈じゃないものですから、これもなかなか思い通りになりません。とは言いますものの、さすが、十六年間もマルコ福音書を中心に説教して来ましたので、長らく聴いて下さった方々には、古典説教になりつつあるものもあるかと思います。
【罪人は差別用語】
さて、話は戻りますが、イエスは罪人という言葉を、文字通りの意味で使っておられないことは確かです。人類みんな罪人である、などと考えていたわけではありません。そんなことを考えている人の下には徴税人や病人というような、差別されている人々が集まるはずないのであります。
突然に差別という言葉を出しましたけれども、徴税人が「罪人」と呼ばれていることから判りますように、「罪人」という呼びかけは差別用語です。多くの教会は、世の中の差別撤廃運動に積極的に参加しておられますけれども、教会の中では「あなた方は罪人です」などと平気で言っております。あれは明白な差別です。神の名を利用している詐欺師の言いがかりに過ぎません。
全人類が本当に罪人なのではありません。罪人だと言い含められてきただけです。そんな言いがかりを払いのけるのがイエスの福音(本当の情報)です。
流行り病に感染すると、病人と呼ばれます。そして隔離されますよね。こういう状況で病人と呼ばれると、差別されます。誰が誰に向かって言っているか、という言葉の使い方によっては、病人や罪人という言葉さえ差別用語です。
こんな差別用語を平気で使う教会に人は集まりません。社会で差別されて来た人々は、差別しないイエスのような人の下に集うんです。
【ぼくたちは】
あなたが逢いたい人、逢いたくなるような人ってだれでしょうか。イエスってそんな人だったにちがいありません。なぜなら多くの徴税人や病人など、社会から罪人というレッテルを貼られていた人が集まったんですから、まちがいありません。
どんな時も、あなたが逢いたいと思える人は、たぶんイエスのような人です。イエスの生き様には聖書の福音書でしか逢えませんけれども、イエスによって平安を取り戻した人は、現実の人として周りにいます。ぼくのようにね。そんな人も、イエスのように、あなたを平安にしてくれるでしょう。
イエスは、迷うことなく、いつも差別されて来た「あなたを招待」しています。イエスのような人も「あなたを招待」しています。
あなたは安心できる人に逢ってください。そして、あなたも、安心させてくれる人、楽しくさせてくれる人、嬉しくさせてくれる人、逢いたくなるような人になりましょう。そのために必要なことは、芝居がかった脚色をしないで、イエスのように、福音(本当の情報)を語るだけでいいのだと思います。