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「本当のイエスを探す」20221023
「本当のイエスを探す」20221023
聖書 マルコ福音書 一章十六節〜二十節
ぼくたちは、数千年に渡って伝えられてきた資料を聖書という形で持っています。これは凄(すご)いお宝なんです。
ただ、最後に書かれたものでも千八百年ほど前のものですから難解であるというのが正直なところです。ぼくたちは、現代語に翻訳されたものを読んで何とか意味を探ることができるだけです。しかも聖書の全ての原典は失われていて、写本が残っているだけです。手書きの写本はいくら注意して写しても間違いが起こるものです。それだけではなくて、原本が間違っているのだろうと感じた写本家が、勝手に書き換えたと思われる箇所もあるのです。ヘブル語聖書の写本では、写本している人がおかしいなあと感じても、とりあえずそのまま写しておいて、自分の意見を欄外に書き残しております。原文をそれほど大切にしていたのです。そこまで注意していたにもかかわらず、異なる写本が存在しているのが事実です。
【写本の間違い】
写本に興味を持っていただくために、写本にもファミリーがあるという話をしてみましょう。たとえば、良い写本を元にして、さらに写本を増やすことになって、A、B、Cという三人が写し始めたとします。全員が忠実に写すつもりだったにもかかわらず、三人がそれぞれいくつかの間違いを犯したとしましょう。その後で、Aさんが写した写本をさらに別の人が写します。その際には、Aさんの間違いはそのまま次に伝わります。同じことがBさんとCさんの写本にも起こったとしますと、同じ間違いを持った特徴ある写本グループができるわけです。これをファミリーと呼びます。このような細かい研究をする人たちのお陰で、この地方教会はAファミリーの写本をよく使っていた、などと判断することができるようになります。その他多くの情報を合わせて、いつ頃写本されたものか、どの写本が古いかなどが想定されている訳です。それほど緻密な研究がなされた上で、現代の翻訳聖書を発行するための定本が決められます。その後に日本語にも翻訳するわけですが、これがまた非常に厄介(やっかい)な作業です。どんな立場の誰が翻訳するかによって、まるっきり異なった表現が結果に現れるからです。翻訳作業には必ず翻訳者の解釈が入るので、翻訳結果は千差万別になるのです。
とにかく、ぼくらが持っている聖書は不動のものでは全くないのです。それでも多くの人が必死の努力を重ねて受け継いできた情報の集大成なのですから、聖書を手にできることは本当に凄いことだと言わざるを得ません。
【専門家にまかせておけない】
聖書の形態がいま手にしておられる状態に落ち着いたのは四世紀末です。それまで、地方や教会の流派によっても少し異なっていたようですから、流動的であったと思われます。
最新の印刷技術を利用して作られた聖書をぼくらは手にしているのですが、印刷技術がなかった頃は、バラバラの写本が主流でした。高価な写本を一般人が手に入れることはできません。たとえ手に入れても、ギリシャ語、ヘブル語、ラテン語で書かれたものを読めるのはごく限られた人だけです。大切な内容が書かれていたとしても、理解できない一般人は専門家の説明を聞くことしかできなかったのです。
聖書をみんなが手にしている今だからこそ、ぼくの解釈に対してそれぞれが聖書を読んで批判することもできるのです。時代が時代ならば、反論などさせなかったところです。しかし今は、しょうがないから皆さんの意見をお伺いして、真摯(しんし・真面目でひたむき)にお答えさせていただいているのです。このようにしてお互いに切磋琢磨できるのは、だれもが理解できるように情報公開されたからです。
十五世紀以降になって、多くの情報が公にされるようになってきました。専門家の隠蔽工作をすり抜けて、一般国民が読めるように、少しずつ聖書が翻訳され、隠し持てる小さな本にされて、旅する行商人の手で広められて行ったのです。これらは命懸けの作業だったのです。
あれから五百年、統一教会の本のように数千万円出す必要はありません。今は本屋に行けば数千円で聖書を入手できます。すごいことです。いやいや、ぼくは聖書の販売員じゃありません。とにかく文明文化の発達はすごいことを実現したということです。とはいえ、いまだに聖書を読むことが許されていない人々が世界にわんさかいるのも事実です。
【弟子批判のマルコ福音書】
さて、そんな聖書の中でも、ぼくが最も大切にしているのは福音書の中で最初に書かれたマルコ福音書です。なぜなら、二千年前にイエスという人間がこの世に誕生して育てられ成長してから周りの人々に影響を与えたということを物語形式で伝えてくれたからです。
マルコ福音書にもたくさんの書き加えられた言葉や逸話(いつわ・エピソード)がありますので、これらの情報から、イエスの人と成りを想像し、自分なりに構築するしかないのですけれども、それにしてもマルコ福音書のイエスは興味深く、さまざまな閃(ひらめ)きを引き出してくれるのでぼくは大好きなのであります。
伝統的な教えを忠実に守って生活するつもりであったイエスは、まるでサタンの誘惑を克服したかのように荒れ野での修行生活から抜け出して、多くの人々が暮らす街に帰ってきました。先週説教したように、イエスはユダヤ教の伝統的な嘘の教えに見切りをつけたのです。
街に戻ったイエスは、まず目についた漁師たちと友だちになりました。荒れ野での修行期間が寂しかったからでしょう。教会ではイエスは弟子を招集なさったと教えられましたけれども、今日のマルコの箇所を見る限り、先生と弟子などと呼べる関係ができたのでないことは確かです。後に周りから弟子とみなされるようになったとしても、イエスは彼らとの関係を師弟関係と考えていなかったと思います。彼らを弟子にしたのなら、イエスは人を見る目がなかったということになります。なにしろ、マルコによれば、彼らはイエスの心が通じないボンクラだったとしか思えません。マルコが福音書を書いた当時の教会では「ぼくらはイエスの直弟子だった。選ばれた十二使徒だったんだ」と嘯(うそぶ)いていた彼らを揶揄(やゆ・からかう)するために、彼らの実態を物語の中で暴いて見せたのだと思います。その証拠に、他の福音書は、マルコの主張に対立するような形で直弟子たちの姿を描いています。ほんの些細(ささい)な違いとして見過ごされがちですけれども、その違いをこそ各福音書の著者たちは強調しているのです。
ペトロをトップに据えた教会がカトリック教会になったように、聖書の読み方の違いによって出来てくる教会が異なるからです。しかも、カトリック教会の基になっている初代教会が、聖書の編纂をしたのですから、偏った信仰概念が聖書に持ち込まれていることは明白です。
【ぼくたちは】
この情報を知っているから、ぼくらは聖書を批判的に読んで、本当にイエスが目指しておられたことを探って、イエスご自身が伝えた福音(真実の情報)に立ち返って、ぼくらの活路を見つけたいと願っているのです。