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「関係は復活する」20200426
「関係は復活する」20200426
聖書 ヨハネ 二十章一節〜十六節
新型コロナウイルスの騒ぎは収まるどころか、有名人の死によって、混乱は大きくなっているようです。あの人はいい人だった、と多くの人は言います。そんな人でも、死んでしまえば、全てが終わってしまったように感じます。個人的には全てが無に帰したように感じますが、人々の中に多くのものを残していったに違いありません。十字架で殺されたイエスも、二千年後の今も、多くの人に影響を与え続けているほど、多くのものを残しました。
マルコ以外の三つの福音書は、殺されたイエスを再登場させています。その際、復活のイエスを見たのは、弟子たちを含む限られた人々であり、その期間も限られたものであったと言います。結果的に、それ以外の人は、イエスが再登場する姿を見ることができないのだ、と言うんですから、そんな話は、ぼくたちに関係ないものだと言わざるを得ません。
【ヨハネ福音書の復活物語】
復活したイエスを見ることなんかできないというのが事実ですから、「見ることができない」ことを、ぼくたちは恥ずかしがる必要なんかありません。それどころか、大手を振って歩いていいんだと思います。こんな考え方を後押ししてくれると思って、今日は、ヨハネ福音書の物語を選びました。
ヨハネが福音書を書いた背景にあったヨハネの教会は、イエスの時代よりもずいぶん後です。しかも、地域的にもユダヤからずいぶん離れていたと思われます。著者ヨハネは、生前のイエスを直接知りません。その意味では、ぼくたちと同じ状況をヨハネも背負っていました。すなわち、再登場した復活のイエスを決して見ることができない人でした。
物語の中には、弟子たちや側近の女たちにイエスが再登場したという内容がありますけれども、それでありながらも「見る」ことに対する批判も書いています。たとえば、弟子たちが集まっていた所に復活のイエスが登場した物語(同 二十四節〜二十九節)では、たまたまその場にいなかった弟子トマスは、イエスが現れたと言う弟子たちの言葉を信じないで、「手に釘穴の跡を見、釘穴に指を差し入れ、脇腹の傷跡に手を差し込まなければ、決して信じない」と言います。そんな時にイエスが現れて、「ほら、言っていた通りにやってみなさい」と言いましたが、トマスは「じゃあそうさせてもらいます」とは言えませんでした。そんなトマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人は幸いである」と復活のイエス自身に、ヨハネは語らせました。
「見た」という証言に対する明確な否定を、物語を通して伝えている、とぼくは読み取りました。はっきり言えば、見る必要はないという意味です。もちろん見ることなど誰にもできません。それならなぜ、復活物語を語るのかと言えば、見ることなどできない当たり前の人々が、そのまま受け止められていることを知らせるためです。それでいいのだとヨハネの教会を励ましたかったんでしょう。「復活のイエスを見た」という物語の最後を「見る必要はない」という言葉でまとめているんですから、話の展開に舌を巻くというのがぼくの偽らざる気持ちです。
ヨハネ福音書には、容認できない表現がたくさん出て来るので、正直言ってぼくは好きじゃありません。しかし、ヨハネが、教会に流通していた復活物語を利用しつつ、自分の教会が必要としていることだけを抽出して巧みな表現で伝えたのであれば、そういう視点に立って、読み直す必要があるのかもしれません。とにかくこの福音書には、本当に心を動かされる物語があります。著者ヨハネは舞台の脚本家のようです。それほど、感情に訴えかける話の展開が上手です。今日の箇所もその一つです。
【ヨハネはマグダラのマリアにだけ注目させる】
さて、復活の日曜日の朝のことです。イエスの遺体が納められた墓を確認しておいた女たちが、弟子たちを差し置いて、早朝にイエスの墓に行ったことを先週話しました。「女たち数人が行った」というのが史実でしょう。しかし、ヨハネはマグダラのマリアだけにぼくたちを集中させます。
マリアは、墓の中にイエスの遺体がないことに驚き、弟子ペトロに報告しました。そこで、ペトロともう一人の弟子が墓へと走りました。ペトロより先に墓に着いた弟子は、後の教会の代表に遠慮したようにペトロを待ちます。そして二人は墓穴に入り、イエスの遺体が無いことを確認しました。しかしそれだけで、家に帰ってしまった、と書かれております。家に帰るなんておかしい、と誰もが思いますから、弟子たちはなんの役割も果たしていなかったことを強調したかったんだと思います。
一方、マリアはどうしていいか判らないまま立ち尽くしております。それしかできません。それでも、家に帰ってしまった弟子たちとは全く異なって、墓に向かって立ち尽くしていたことに意義があります。
【通夜の作法】
昔のことですが、親戚の家のお通夜の時に、多くの人が引き揚げてから、ぼくの父が一升瓶を持って棺(ひつぎ)の傍(かたわら)に行って座ったことを思い出しました。なぜそのようなことをするのかと尋ねましたら、これが本当の通夜だ、と言って、寝ずの番をしていまして、そこにおじさんたちが数人集まって本当の通夜をしていました。
マグダラのマリアもただイエスの遺体の側に座っていたかっただろう、と思います。しかし、安息日を十字架上で過ごさせないために、撮り下ろされたイエスの遺体は、急いで墓の中に納められてしまったので、マリアはイエスの遺体に寄り添っていることもできませんでした。時が過ぎていくのをただただ待たなければならなかったマリアは、どんなに辛かったでしょうか。
そして、夜明けを待って墓に行ったマリアが見たのは空の墓でした。イエスの遺体がありません。
やっぱり、通夜の時は誰かが側にいてあげないといけないんですね。どこに探しに行けばいいのか、全く当てのないマリアは、立ち尽くすことしかできませんでした。
財布が見当たらない時に、バッグの中を何度も探すように、マリアも墓の中を、何度も覗いているうちに、二人の天使が座っていることに気づきました。
【天使の質問】
天使は「女よ、なぜ泣いているのか」と訊きます。「わたしの主が取り去られました。どこにあるのか判らないんです」とマリアは答えました。それから、後ろに誰か別の人がいるような気配をマリアは感じました。マリアが振り返ると、確かにもう一人立っていました。それはイエスであったらしいんですが、マリアはイエスだとは気づかずに、また墓に向かって泣いていたんでしょう。
そんなマリアにイエスは「女よ、なぜ泣いているのか。誰を探しているのか」と問いかけました。
この箇所を読むといつも、天使にせよイエスにせよ、質問の仕方が意地悪やなあ、と感じます。「わかってるやろ」「決まってるやろ」というようなことをわざと訊きますでしょ。
ぼく自身も、こんな意地悪な喋り方をよくしてしまいます。それは、聖書をよく勉強して、聖書の表現が身体に染み込んでいるからです。・・・というのは冗談で、ぼくは本当に意地悪なだけです。とにかく、素直に聞いておれないような質問です。
切羽詰まった状況で、何度も同じことを尋ねられたら、誰でも腹たちまっせ。
マグダラのマリアはイラついて、墓守だと思っていた男に、背を向けたまま、「あのお方を運び出したのが、あんたやったら、どこに置いたか教えてよ。わたしが引き取るさかいに」と、ため口で言いました。ため口だったとぼくは思います。
【イエスの呼びかけ】
すると、その時、後ろにいた人がもう一度呼びかけました。ただし、今度は、「女よ」などという不特定多数に呼びかける言葉じゃなくて、「マリア」と呼びかける声でした。
「マ・リ・ア」という呼びかける声が響いた途端に、マリアの全身を何かが走り抜けたようです。
マリアは急いで振り返りながら「ラボニ(先生)」と叫びました。すごく劇的な描写です。ただし、劇的なのは、ここまでです。マリアとイエスが手を繋いで墓場から街に戻って来るようなことはありません。再登場したイエスは遠くに行って見えなくなってしまうんです。ですから、再登場するイエスは、ヨハネの教会の人たちとも、また、ぼくたちとも関係ありません。
【マリアとラボニの関係】
しかし「マリア」「ラボニ」と呼びかけ合う物語は、とても素敵です。このように呼びかけ合う関係の中には重要なことが示されています。不特定多数への呼び方である「女よ」という呼びかけに反応しなかったマリアは「マ・リ・ア」と呼び掛けられただけで、イエスとの生活に呼び戻されたように、人と人の関係は、近くに居ても、遠くに居ても、たとえ死んでもなくならない、ということです。ぼくたちも関係の中で生かされてきたんですから、たとえ死んでも、関係は生き続けます。死んだ身体は蘇りませんけれども、関係はいつでも蘇るということです。
ヨハネが生活していた時と場所は、イエスを見ることも触ることもできませんでした。そんな状況ですから、見たり触ったりすることが重要じゃない、と言います。ぼくたちに必要なのは、マリアとイエスの関係のように、関係が蘇って生きることです。
マリアとイエスの関係の中で、イエスがマリアに蘇ったように、わたしたちの関係にもイエスの生き様が蘇ることが重要だと言っている気がします。
実際には、墓の前で立ち尽くしているマリアに、「マリア」とそっと語りかけてくれた人がいたんでしょう。それが誰かは判りません。しかし、亡霊や幽霊じゃなくて実際に誰かが、「マリア」と呼びかけたことをきっかけにして、いつも呼びかけてくれたイエスに気づいたんだと思います。そして、その気づきによって、マグダラのマリアは、墓に向かって立ちすくんでいた姿勢から解き放たれて、イエスと生きて居た時のように、自分の生活を立て上げていく方向へと踵(きびす)を返して歩み出したんだろうと思います。
マリアが自分を取り戻して、生活を立て上げていくことができたのは、「マリア」と呼んでくれた人との関係があったからです。ヨハネは、マリアの中にイエスとの関係が蘇ったことをイエスの復活として、物語ったんだろうと思います。
【ぼくたちは】
ぼくたちの生活にもイエスは決して再登場しません。しかし、会うことも触れることもできないことが、決して引け目のあることじゃない。それでいいんだと、ヨハネはぼくたちを慰め励ましているんでしょう。
「マリア」と名前で呼びかけたイエスの仕草は、ぼくたちにも受け継がれています。イエスの呼びかけを聞いたマリアのような人が、あなたに呼びかけてくれるだけで、あなたは新たな生き方を始めることができるでしょう。あなたが元気になったら、立ち尽くしている人に、あなたが、優しく呼びかける人になってくれることを願っています。