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「パンデミック・サギ」20240225

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「パンデミック・サギ」20240225

聖書 第一コリント 節~

 

 今日の題に使った「パンデミック」とは「感染症の世界的な大流行」を指す言葉です。ですから世界詐欺(さぎ)が流行し、今や、世界中に蔓延しているといお知らせです

 さて、今年の復活祭三月三十一日であると先週お伝えしました。その際に、復活祭の日取りはどのよう決められているかを言いました。春分の日の次の満月の次の日曜日でしたね。覚えておられるでしょう。降誕祭十二月二十五日と決まっているけど、復活祭は面倒です。

 これらの日取りは四世紀に開かれた教会の会議で決められました。教会の歴史にとって四世紀というのは重要な節目の時代です。キリスト教が公認され、制限されずに宣教できるようになったのも、ローマの国になったのも、聖書の正典が固定されたのも四世紀です。つまり、キリスト教が組織体として体裁を保てるようになったのは、四世紀以降です。

 いまだに、聖書は誤りなき神の言葉であると教えている教会が多いですけれども、新約聖書とは、西暦五十年前後から二世紀に書かれた文書を一まとめにして正典(カノン・定規)という権威を教会会議が与えたものです。つまり、今のような聖書が初めからあったのではありません。

 ちなみに、現代の教会会議で決めたことを、誤りのない神の意思だと誰も思わないように、四世紀の教会会議の決定誤りがないなどと誰も言えないはずです。

 

【教会会議で正典は決められた】

 ローマ帝国がキリスト教を国家の宗教する際にあちこちの地方教会がバラバラの教典んでいたのでは、統一がとれないので、公に読んでいい文書(正典)を決めたのでしょう。

 今では聖書という一言で片付けている書物は、このような背景があるという事実を確認しておきましょう。

 新約聖書の中で、ぼくが福音書を最も大切にしている理由は、イエスの生き様を物語形式で読むことができる特筆すべき文書だからです。ところが福音書は四つも納められています。著者それぞれ特徴があって、内容も異なっているのですから誤りなき神の言葉とは言えません。

 四つの中で最初に書かれたと思われるマルコ福音書さえ著作年代は紀元七十年前後だと思われます。ということは、イエスが活動なさった時代から四十年くらい経ってから書かれたものです。言い伝えられた伝承やイエスの言葉の断片などはすでにあったようで、それらを、マルコは一つの物語に編集したのでしょう。このように、いろんな時代背景を含んでいることを覚えながら読まなければならないのです

 

【異なる時代背景】

 ぼくらが読んでいる聖書は、イエスが活動なさった時代、それが伝えられた時代、文書にまとめられた時代、その文書が公に認められた時代など、いくつもの時代を経たものです。さらに、たくさんの翻訳本がありますし、それを読んだ多くの人が独自の解釈を施して、千差万別の説教をしている訳ですから、何が正しいなんて、全く判りません。要するに、ぐちゃぐちゃの聖書を読んで、その中に書かれている真理を読み取ろうとしているのですから頭が混乱することはお許し願います。

 ぼくには多くの文書を教える能力はありませんので、イエスがお伝えになった福音とは何か、という事に集中います。だから一番最初に書かれたマルコ福音書を読むことが多いのです。

 

【教会はイエスが作ったものではない】

 聖書を読む時、まず、イエスが活動なさった時代の中での、イエスの言動の意味を考えなければりません。

 イエスはユダヤ教社会で生まれ育った人ですから、律法を教えられ律法を忠実に守ろうとしたユダヤ人でした。しかしイエスは自分が生活してきた社会の伝統的ユダヤ教が教えた唯一の神に仕えることによっては救われないことを、何よりも仕えることなどできないことを自覚したので自分が救われるために独自の思考を重ねたのでしょう。

 自分の論理を公表しイエスの教えに同調する人が多くなったので、その活動はユダヤ社会への反抗と受け取られ、抹殺されました。この時点で、イエスは自分なりの福音を自分の言葉で語り出しただけです。新しい宗教を興すつもりはなかったはずです。

 

【イエスの福音と教会の福音は異なっている】

 イエスは十字架に磔(はりつけ)にされて殺されました。しかし、イエスの活動はそこで終わらずに、弟子たちがイエスの活動を引き継いだと教会では教えられています。確かに、イエスの死後しばらくして、なぜか教会ができてくるのです。

 ただし、教会はイエス設立たものではありません。というの、イエスが伝えた福音と教会が伝えている福音が異なっているからです。

 当時のユダヤ教から罪人扱いされていた病人や障害者にイエスは、罪の悔い改めを求めずに赦しを宣言しました。これがイエスの福音の最大の特徴です。しかし、教会は悔い改めを求めます。実は、ユダヤ教は悔い改めを求める宗教です。キリスト教ユダヤ教から派生したのでしょう。この両者は罪の悔い改めを求めるということで繋がっていることは確かです。ですから罪の悔い改めを求めないイエスの福音はユダヤ教にもキリスト教にも、繋がっていないのです。

 

【イエスは犠牲を認めない】

 ユダヤ教では罪悔い改めを、犠牲の供物で表します。罪を「贖い(あがない)」、「償い(つぐない)」をしなければならないのです。人間が神の命令に従わなかったことによって、が受けた損害を弁償穴埋めしなきゃならないのです。完全に元には戻りませんけれども、代わりのもので勘弁してもらうが、ユダヤ教の赦しのようです。

 これに対して、イエスは償いを求めません。弁償しない状態のままの相手を受け入れます。それがイエスの赦しです。

 キリスト教は、赦されるためには罪の悔い改めと贖罪(しょくざい)の供えものを要求します。

 ここにキリスト教が持ち込んだのが、全人類の罪を贖うためにこの世に来られた贖罪の羊イエスが、十字架にかかって死んでくださったという論理ですイエスを、ユダヤ教の神を宥(なだ)めるための供え物にして、イエス殺害されたことに、別の意味を与えた。そんなことをした人がキリスト教会を設立したのでしょう。

 イエスの弟子たちにこんなこと思いつく人はいないでしょう。こんなことができたのは、イエスとの血の繋がりもあり、ユダヤ教にも精通していたイエスの弟ヤコブに違いないと思っています。ここまで言うのは、ぼくのフィクションです。

 名目上の教会の株主は弟子たちです。けれども実質のオーナーはイエスの弟ヤコブだったんじゃないでしょうか。

 このようにして組織された教会は、すべての人の罪を贖うためにイエスは自分の命を差し出してくださったのだと教えますけれどもこの考えには無理があります。何も求めずに赦しを宣言なさったイエスが、自分自身を神への贖いの供え物にすことなどあり得ないからです

 

【イエス犠牲説は教会が作った

 そうだとすれば、すべての人の罪を背負ってイエスは十字架に掛けられ死んでくださったという解釈は、ユダヤ教の神学を元にした罪の解決方法の犠牲者にイエスを仕立てただけです。そこにイエスの生き様もイエスが語った福音の継承もありません

 教会教義は、イエスの殺害をそのまま受け取ることができなかった弟子たちを納得させ新しい宗教として立ち上げさせるために誰か(ヤコブ)が練り上げた宗教に違いありません。そこにイエスの福音はないのです。

 

【復権を狙う宗教】

 現代社会は宗教の嘘に気づいたと思っていましたがそうではないようです宗教は現代に強力に甦りつつあります。

 現代社会は宗教のような理念を失ったから混乱しているのだと語る者たちが増えてきました。そのような思想に安易に引き込まれる若者も多いのです。ぼくたちは、人類最古の詐欺である宗教に騙されないように注意しましょう。掴みどころのない見えざる神を教える宗教はサギですから信じてはいけません。この詐欺は人間の精神の深みに住み着いています。

 とりあえず信頼できるのは、抹殺されることが判っても、真実を語ったイエス言葉と、ユダヤ教の神を教えるユダヤ教に屈服しなかったイエスの生き様です。

 殺害されることを恐れ、師匠を置いて逃げた弟子たちを株主にして創設されたキリスト教の教義に騙されてはなりません。キリスト教会に、イエスの福音はありません。

 キリスト教会が作った教義は世界に告げ広められました。キリスト教だけでなく、世界中に蔓延してい八百万の宗教はパンデミック・サギです。

 今日の聖書箇所でも、嘘が堂々と書かれています。先週も言いましたように、イエスの墓が空であったことやイエスの復活に気付いたのは女たちだけでした。ところが今日読んだところには、ケファ(ペトロ)に現れ、その後十二人に現れたと書かれています。女が切り捨てられているのです。これは弟子たちを教会の中心に置くために作られた嘘なのです。せめてユダをはぶいて十一人にしておくべきでしたね。

 

【ぼくたちは】

 組織を作るために教会は嘘をつきました。今の政治家たちと同じです。こんな教会が伝え福音で救われません。ぼくたちは、条件なしで人に赦しを宣言したイエスの福音に根ざして、自分も救われると共に、自分が大切にしている人たちを救いましょう。イエスの福音に罪の悔い改めも贖いの供え物も必要ありません。

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