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「悪霊に負けないイケメン」20221106
「悪霊に負けないイケメン」20221106
聖書 マルコ福音書 一章二十九節〜三十四節
荒れ野を去って、街に出てきたイエスはガリラヤ湖の岸辺で、まず漁師に声をかけて友だちになりました。他の教会ではこんな話は聞けません。最近の聖書は話を見つけやすくするために小見出しが付けてあって、その部分には「四人の漁師を弟子にする」と書いてありますけれども、これは本文じゃないから惑わされないでくださいね。本文には、子弟関係になったと書かれていません。ごまかされないように注意してください。イエスは漁師の友だちを作ったという程度です。その後数日間、五人が何をしていたのかわかりませんが、安息日には会堂に行ってイエスは一悶着(ひともんちゃく・もめごと)起こしたようです。そんなことで疲れたんでしょう。ユダヤ教の会堂を出たイエスとシモン(ペトロ)とその兄弟アンデレと漁師仲間のヤコブとその兄弟ヨハネは、ちょうど遊び仲間が溜まり場にしやすそうな仲間の家に上がり込むようにシモンとアンデレの家に行ったんだそうです。
【シモンの姑(しゅうとめ)】
仕事に疲れた男たちが帰ってきたのなら喜んで迎え入れたでしょうが、今回の状況はちょっと違います。婿(むこ)さんは漁師の仕事をほったらかしにして、どこから来たともしれない若い男(イエス)に誘われて何処かをほっつき歩いた挙げ句に、イエスは安息日の会堂に入って一悶着を起こしたんです。そんな男を家に引き込まれては困る、と誰でも思います。
シモンが先に家に入って「今から友だち四人連れてくるよ」とでも姑に伝えたんでしょう。
「いややわ。誰も連れて来んといて。姑は熱を出して寝てます、とかなんとか言って追い払ってよ」とでも言ったんでしょう。知らんけど。
シモンはすぐに家を出て、向かって来るイエスに「いやあ、間の悪いことに家を切り盛りしている姑(しゅうとめ)が熱を出して寝ているんです」と伝えて家に来るのを断ろうとしましたが、イエスはシモンにかまわず家の中にどかどか入って行きました。ずうずうしい人です。
あれよあれよと見ている間に、イエスは姑のそばに行って手を取って引き起こしました。すると彼女は急に熱も去り、元気に一同をもてなしたんです。難しく考えると辻褄の合わない話ばかりですから楽しく考えてみましょう。
姑は、何処の馬の骨かわからない男を家に入れたくなかったんですが、実際にイエスに会うと、(ペトロと違い)顔といい仕草といい、想像を絶する現実に圧倒されて急に元気になったんでしょう。人間なんてそんなもんです。姑の病名は仮病(けびょう)だったんでしょう。
イエスは姑の気分を良くするほどの外見や仕草を身につけていたんでしょう。知らんけど。このように楽しく福音書を読めばいいんです。イエスはシモンの姑の熱を去らせる奇跡をなさったんだ、などと難しく考える必要はございません。当たり前のことが書いてあるんです。
さて、イエスはシモンの姑を元気にしたのでもてなしてもらえました。やはり、その場を切り盛りしている人を相手にしなきゃならないということです。イエスは、抑えるべき要(かなめ)を心得ていました。もしも「シモンの家なんだからシモンの自由だろ」などとシモンを焚き付けていたら大騒ぎになったでしょう。抑えるべきところを押さえたことによってイエスはこの家を丸く納めました。これだけでも奇跡です。(自分の家と比べてみれば判るはずです)
あちこちうろついて疲れていたイエスは、しばらくぶりに楽しく飲み食いしたはずです。
【またまた悪霊の登場】
安息も束の間でした。日が沈むのを待っていたように、人々が病人や悪霊に取り憑かれた者たちを連れてきたのです。
古い慣習や宗教に縛られて、自由に生活できない人たちは今も本当に大勢います。悪霊に取り憑かれたような会堂長と平然と対峙したイエスを見た人が、悪霊を取り払ってもらうために知人を連れてイエスの下に集まったのでしょう。本当は世間の目を避けて、闇夜にこっそりと来たかったのでしょうが、同じ思いの人々で、シモンの家の戸口は溢れていたようです。
そこで、イエスは多くの病人を癒し、悪霊を追い出したのだそうです。さらに、悪霊に文句を言わせなかったとあります。なぜなら悪霊はイエスを知っていたからだと説明されているのですが、この表現もちょっと奇妙です。
「弟子たちはイエスのことを良く知っていた」というのならば常識的に理解できます。けれどもそうではなくて「悪霊がイエスを知っていた」というんですから、なにか変だなあとみなさんもお感じになったでしょう。たぶん、この言葉には裏の意味があります。
先週も言いましたように、会堂にいた悪霊に取り憑かれた男というのが、会堂の運営責任者であったとすれば、宗教指導者たちはイエスがどんな存在であるのかを理解していたということですから、話が通じます。すなわち、イエスが伝えた情報は伝統的なユダヤ教を教えている彼らにとって脅威になる、ということを彼らは鋭く察知していたということです。イエスの友人たちは一瞬たりとも考えもしなかったことです。しかし悪霊たちはイエスの危険性を感じていたということです。会堂内でイエスが教えたことはそれほど衝撃的な内容だったのです。
「悪霊に取り憑かれた者たち」というのは、何度も言っておりますとおり、ユダヤ教の伝統的な教えに凝り固まった人々です。そう考えると辻褄が合います。
「病人や悪霊に取り憑かれた民衆」はイエスから本当の情報を教えてもらって、宗教の伝統的な教えから解放されたのでしょう。それはまるで悪霊に取り憑かれていた人や病人から、イエスが悪霊を追い出したように見えた、と福音書の著者マルコは書いているのです。さらに、悪霊に取り憑かれた男という表現を遥かに超えて、ここでは、彼らは悪霊そのものだ、とマルコは言っているのです。彼らの働きが、多くの悪霊に取り憑かれた男たちを生み出している、とマルコは解釈したのでしょう。
伝統的な宗教観を壊す発言をするイエスを見過ごすことができないユダヤ教の宗教者たちはイエスを論破しようと喰ってかかったに違いありません。しかしイエスは、そんな人々に負けませんでした。イエスは彼らが何も反論できないほどに自分の確かな情報で論破したに違いありません。それが「悪霊にもの言うことを許さなかった」という意味だと思います。まるで見てきたように言っておりますけれども、本当のところは知りません。
【ぼくたちは】
さて、ぼくたちがイエスからいただいた真実の情報はそれほど価値があり力強い情報です。なにしろ、イエスの教えは、ぼくたちが騙(だま)されないために知っておかねばならない「真実の情報」だからです。
イエスが悪霊を追い出したこの情報を、ぼくたちも持っている限りは、人を騙す悪霊の教えを振り払うことがぼくらにもできます。
ぼくらは悪霊を振り払って元気になり、友人たちをも元気にしましょう。