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「小さな種を蒔く」20220313
「小さな種を蒔く」20220313
聖書 マルコ 四章 一節~九節
【プレビアス(これまでの)】
さて先週は、イエスに向かって「あなたこそ神の子です」と叫んだのは、穢れた霊たちだったということを通して、教会に対する皮肉を書いたマルコ福音書の記事を紹介しました。イエスの身内はイエスが狂っていると思ったようですしユダヤ教の律法学者たちはイエスは悪霊に憑かれていると吹聴(ふいちょう・言いふらす)していた、とマルコは書いています。穢れた霊でさえ知っていることを、自分はまともであると思っているあなた方は判らないのか、という批判が語られているに違いないと思います。
【イエスの譬え話】
イエスは教えを説く際に、譬え話をよく用いたと言われています。この日も、イエスは群衆から距離を置いて、船の上から岸の群衆に譬えで話しかけました。
「種を蒔く人の譬え」と呼ばれているものは、蒔かれた種が四つの条件の異なる場所に落ちたけれども、良い地に落ちた種だけが多くの実を結んだ、というものです。
判りにくい譬え話だと感じました。蒔かれた場所が大切なのであれば、多くの実を結ぶかどうかは種を蒔く者にかかっている。すなわち責任は種を蒔く者にあるはずです。ところで、十三節以降の「種を蒔く人の譬えの説明」という部分では、種は神の言葉であるとされ、蒔かれる土地が人であると説明されており、実りが多いかどうかは、土地の良し悪しによって決まるということですから、責任は土にあることになります。そうだとすれば、「種を蒔く人の譬え」と「種を蒔く人の譬えの説明」の責任の所在は完全に異なっています。これらの話が釈然としなかった理由はここにあったのです。
【譬え話の位置を替えてこそ判る】
譬え話とその説明を読んで混乱している読者に、これまでの内容とは全く関係のない「灯火(ともしび)と秤(はかり)の譬え」という噺が、紹介されています。これは、まるで混乱している読者の思考を停止させるためにこんな場所に置かれているのかなあとさえ感じます。
続いてなぜかまた種の噺に戻っています。「成長する種の譬え」についての噺では、植物は種を蒔いた人が知らないうちに成長する、という極めて楽観的な内容であることに驚きました。それにしてもこれら一連の噺が、あまりにも不思議な繋ぎ方になっているので、その理由を何度も思い巡らしました。そして行き着いたのは、極めて楽観的な「成長する種の譬え」という噺は、最初に紹介した「種を蒔く人の譬え」に直結させるべきだということです。
そのように繋げば、種を蒔く人は良い地に種を蒔けばよいだけです。そうすれば、種を蒔いた人が知らないうちに土が種を成長させ、収穫ができるようにしてくれるのだ、というシンプルで理解しやすい噺だと判ります。
【不適切な土に種を蒔く農夫はいない】
道の上や石地や根深い雑草が生えているところに落ちた種が成長できないことは誰でも知っています。ですからそんなところに、わざわざ種を蒔く農夫はいません。そんな土地に誰も種を蒔かないという当たり前のことを前提にイエスは譬え話をしたんだろうと思います。
ところが、イエスがお話しになったことだという理由だけで、言葉のひとつひとつに意味を与えようとするから「譬え話の説明」などという滑稽(こっけい)な噺が付け加えられたのだと思います。初代教会で好まれた説教が福音書本文に挿入されたんじゃないでしょうか。
たとえ作物の成長に適さない土であったとしても、土地そのものに責任があるわけじゃありません。土地に良いも悪いもありません。穀物を育てるのに適したふかふかした土地も、重い建築物を建てるには適さないわけですから、作物を育てるのに都合が良いか悪いかというだけのことです。
常に農作業に隣接しているイエスの時代の人々が、土地を見て種を蒔くのは常識ですし、蒔いた種を人が四六時中見張っていなくても、知らない内に成長して収穫できるようになるものだという、極めて楽観的なことをイエスは語っただけのように思います。
【からし種の譬え】
「成長する種の譬え」に続いて「からし種の譬え」というのがありますが、これを読むとさらに楽観的な要素が膨らまされているように感じます。すなわち、本当に小さなゴミのようなからし種が成長するとどんな野菜にも負けない大きさになる、というのです。イエスは「神の国」を大きく育つ小さな種に譬えたのです。
このようにイエスの譬えの全体を見通すと、イエスのおおらかな考え方に癒されるんじゃないでしょうか。
農夫は当然、作物を育てるためにふさわしい土に種を蒔きます。そうすれば小さな種が知らないうちに大きく成長する。ぼくたちが求めている「神の国」もそんなもんだよ、というのがイエスの基本的な考えだと思えます。
人それぞれに、何らかの成果を目標にして自らの神の国を作ろうとしているのでしょう。けれども、実際には思うようにはできません。良い地を選んで種を蒔いても、作物の成長や収穫には天候も影響します。放っておけません。しかし、どんなに努力しても、収穫の一歩手前で全部が流される可能性もあるのです。そう考えると、イエスのように簡単な譬え話で済ますことができないと思うでしょう。
しかし、収穫が人の思い通りにならないことは確かです。できるだけのことをしても、それ以上のことを人間にはどうすることもできません。どうにもできないことに囲まれて生活しているのが事実です。どうにもならないこと、どうにもできないことがあるというのは当たり前なのです。そんな世界で暮らしているのだから、常に感謝の気持ちをもって生かしていただいていることを忘れないようにしましょう。
【ぼくたちは】
とにかく、イエスの言葉にはおおらかさが溢れています。諦(あきら)めという否定的な感情ではなく、蒔いた種は成長して大きな収穫を得るという希望を持って、植物の成長に適した所に小さな種を蒔く努力を続けるしかないのです。石を取り除き、雑草を刈り、治水(ちすい)して、少しでも良い土地にしようと努力することはできます。しかしその後、どれほど雨が降るのか、日照りが続くのか判りません。多くの収穫があっても、動物や人間に奪われる危険もあります。それを防ぐ努力も必要です。考えて、できることは精一杯しましょう。けれども、それ以上悩んでもどうしようもないことは悩む必要もありません。やれることだけやったら、あとは小さな種が持っている生命力とそれを育む土に任せて、待てばよいのです。からし種が、鳥が巣を作るほど大きくなるように、みんなが幸せに暮らせる所は小さな種を蒔くことから広がっていくものだ。「神の国」とは、ひとりひとりが蒔く小さい「からし種」みたいなものさ、とイエスは言ったのです。
とにかく小さな神の国の種を良い地に蒔くことだけは続けていきましょう。