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「弱者に仕える人になれ」20201025
「弱者に仕える人になれ」20201025
聖書 マルコ 九章三十三節~三十七節
木曜日の聖書楽講座の中心は話し合いですが、同じ出来事に対しても、人によって見方も解釈も、伝わり方も異なっているなあ、と感じます。話し方も聴き方も異なりますから、全てのことは、全く異なって人に伝わるもんだと考えておいた方がいいでしょう。そんな事実を楽しく伝えているのが「伝言ゲーム」です。昔は教会の少年少女会でもよくやりました。
【共観ではない】
聖書でも同じです。新約聖書にある四つの福音書の内の三つ、マタイ、マルコ、ルカは共観福音書と教えられましたけれど、それぞれの著者の著作意図がぜんぜん異なっているので、この呼び方は相応しくありません。
自分の教会に、マルコと同じ内容を知って欲しければ、「マルコ福音書」を宣伝すればよかったんです。しかしそうではなくて、マタイもルカも、わざわざ自分の福音書を書きました。なぜなら、マルコとは異なる表現をしたかったからです。ですから、それぞれの意図で、異なる表現を残した福音書を、共観福音書なんて呼ぶのは失礼です。異なる福音書を、同じように読むなんてことをしちゃならないでしょう。著者の意図を酌んで読むことこそが聖書に誠実な姿勢です。
【違いについて】
新共同訳聖書には、蛇足のような小見出しが付けられております。先ほど読んでもらったマルコ福音書と、並行箇所のルカ福音書(ルカ 九章四十五節~四十八節)の小見出しは「いちばん偉い者」となっています。しかし、マタイ福音書では「天の国でいちばん偉い者」(マタイ 十八章一節~五節)と書かれています。
マルコとルカは、弟子たちの中で一番偉いのは誰か、と争っている情景であるのに対して、マタイは、「天国では」誰が一番偉いのか、というまったく別の問いに変えております。弟子たちが権力争いしていたことを、マタイは残しておきたくなかったからでしょう。だから今日はマタイをちょっと横に置いておきます。
同じ小見出しのマルコとルカだけを比較しても、これもまた、ずいぶんと異なった内容になっております。ルカは「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」(四十八節)という言葉でまとめていますように、ここには上下逆転というルカの特徴が見事に現れています。だからこれは、ルカ自身の言葉だと思います。
あらためて、マルコを見ますと、この箇所には、「弟子たちの中で、誰が偉いか」という物語と「子供を受け入れることが、イエスを遣わした方を受け入れることになる」という主題の異なる二つの物語が、見えてきます。
【マルコには二つの物語がある】
「だれがいちばん偉いか」と弟子たちが論じ合っていたことは、マルコとルカは同じですが、マルコだけは、その答えを明確に示しています。
マルコのイエスは、前半の内容については、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と明確に答えておられます。
ですから、今日読んでもらったマルコの記事は「先頭になりたい者は、仕える者になりなさい」(三十三節~三十五節)という言葉で、一度切るべきです。これに続く「子供を受け入れることは、イエスを遣わした方(神)を受け入れることだ」(三十六節~三十七節)という部分は、異なった主題を扱っているんですから、別の小見出しを付けるべきだ、とぼくには思えます。
ところが、マルコの福音書を読んだルカもマタイも、この二つの主題をくっつけてしまったようなんです。そんなふうにしてしまったから、主題が混じってしまい、文章の意味が判りづらくなってしまっています。しかもマタイは「子供のようにならなければ天の国に入れない」というように天国には誰が入れるか、という、これまた全く異なった物語にしてしまっています。
【イエスは一番の概念を壊す】
二つの主題を分けて、マルコの前半部分だけを見ると、出来事の始まりは、マルコ福音書にも書いてあるように「だれがいちばん偉いか」と弟子たちが議論し合ったことです。
弟子たちは、「いちばん偉い」ということに心が囚われていたことがわかります。
「いちばん」を求めるのは、動物である人間の性(さが・・・持って生まれた性質)でしょう。この人間の生まれ持った性質をうまく利用して、どんなことにも一番を競わせるのが競争社会です。しかし、イエスは、「一番偉い」という概念そのものを根底から変えてしまいます。
イエスは「十二人を呼び寄せて」おっしゃいました。「先頭になりたければ、最後になれ。みんなに仕える人になれ。」とおっしゃいました。
「一番偉く」なりたい、というのは「みんなに仕えてもらいたい」と思っていることです。そんな弟子たちに向かって、「みんなに仕える者になれ」とイエスはおっしゃったんです。これはもう価値観の逆転ですから、弟子たちには理解できなかったかも知れません。
このようにマルコを見てくると、ルカとの違いが鮮明になってきました。ルカとの違いを確認しておきましょう。
ルカの場合は「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」という言葉で、後半を結んでおります。確かにルカには逆転の発想があります。そして「最も小さい者が、最も偉大である」という逆転で満足しているように思えます。
教会も世の中の多くの宗教も、このような逆転の発想に踏みとどまっているものが多いんです。
逆転さえすれば一番を目指せるという教えは説得し安いからでしょう。なにしろ、下に行けば行くほど、逆転の時には上に行くことができるからです。「この世では最も小さくされているから、天国に行ったら偉大になる」というマタイの発想も、基本的に、逆転に支えられている、と言えます。
【イエスは逆転を望んでいない】
このように、多くの宗教は逆転を教えます。しかし、逆転すればいいってもんじゃありません。なぜなら、逆転だけでは、組織の形態は何も変化しないからです。すなわち、逆転するということは、上と下の構成員が入れ替わるだけのことです。上が下を支配する、という組織構造が変わらなければ、社会構造によって生み出される苦しみはなくならないからです。上が下を支配するという根本問題はそのままで、構成員が入れ替わるだけの変化を、イエスは求めていないでしょう。
最終的には逆転して、「最も小さいものが最も偉くなる」と言い切っている通り、ルカは、「偉くなること」に価値を置いています。結局は、やっぱり「偉く」ならなきゃいけないということになってしまっているんです。価値観は逆転では変わりません。逆転してでも偉くならなければいけない、という価値観に捕らわれている限り、人は平安になれない、と思います。
人間は、自分勝手に作った価値観に囚われているだけです。弟子たちの争い事を聞いたイエスは、弟子たちが、そのような状態から解き放たれ、自由にされることが必要だと、お考えになったことでしょう。
マルコが伝えているイエスは、「偉くなる」ことを誰にも要求していません。いちばん偉くなりたい弟子たちに、人に仕えるパフォーマンスを求めた訳でもありません。「みんなに仕えれば、いちばん偉くなれる」などという約束もなさいませんでした。「先頭になりたければ、みんなの後になれ。みんなに仕える人になれ」とイエスは弟子たちにおっしゃった。その事実を、マルコは伝えたかっただけでしょう。
この部屋に、暑がりの人も寒がりの人もいるでしょう。その中に、自分では何もできない、小さな赤ちゃんがいたとすれば、赤ちゃんが一番過ごしやすい環境を作ってあげる必要があるだけです。権力者がいたとすれば、その人が自分の好みに合わせて環境設定するんじゃなくて、その人が赤ちゃんのことを一番に考えてあげるようなことをしなきゃならない、ことになるはずです。
アメリカは大統領選挙で盛り上がっております。一番の席を獲得すれば、みんなが敬意を払って仕えてくれますけれども、そんな席にふんずり帰っているだけでは、住み良い社会を作れません。偉い人は、手が届く範囲の全員のこと、特に小さき者を気遣わなければなりません。みんなに仕える人であり続ける、とはそういうことです。
マルコが見ている教会の実情は、そういうことから程遠い状況だった、に違いありません。権威主義に陥ってしまった教会の現状を見れば、容易に想像できます。
弟子たちの現状がおかしいと考えたマルコは、この物語のイエスの言葉を通して、弟子たちに訴えかけていたんでしょう。
この言葉は、偉い人に仕えさせられている人々に向かって語られた言葉ではありません。そうではなくて、自分に仕えることを要求している人、すなわち、初代教会の「弟子たち」やそれに準ずる人に対して語りかけられている言葉です。
【ぼくたちは】
ですから、偉くなって一番にならなければならない、ということじゃありません。みんなに仕える偉い人が必要だということです。人に仕える人こそが、認められて、本当に偉い人になれるんでしょう。そして、偉くなったあかつきには、さらに、すべての人に仕える人になれ、ということです。だから偉い人になるとか一番になるというのは大変疲れることなんです。
偉くなって仕えられる人にならなきゃならないという価値観は、このように、イエスの言葉によって、完全に壊されてしまったんです。常に、「最も小さき者を含めたみんなに仕える者になりなさい」というのが今日のイエスの教えです。そうなれば、みんなが幸せになれるはずだからです。