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「希望をくれる教え」20220320
「希望をくれる教え」20220320
聖書 マルコ四章十~十二、三十三〜三十四節
【プレビアス(これまでの)】
大きく成長する希望を以って農夫が小さな種を蒔く努力を続けるように、ぼくたちはそれぞれの生活の中で、みんなの生活を向上させるために必要だと思う働きを続け、できるだけの事をした後は、待てばいいのだと語ったイエスは、おおらかで楽観的な思考の持ち主でした。
種を蒔くために最も適した土地ばかりがあるわけではありません。実際には適さない土地が多いはずです。しかし日本では、先祖代々が土地を改良してきました。今のぼくたちが豊かな実りを享受できるのはそのお陰です。それと同じように、誰かに何か示唆(しさ・それとなく教える)を与えようとしても、受取手の準備が出来ていなければ通じません。受取手の心を柔らかくする必要があります。
作物を育てようとする土地の石を取り除き、雑草を刈り、治水(ちすい)して、農作業に適した土地にしようと努力するように、人の心に種を蒔く、すなわち人に示唆を与える場合にも、人の心を耕(たがや)さなければなりません。また、せっかく耕した土地が荒れ地に戻ってしまわないように、雨や日照りや敵に襲われる危険を防ぐ努力もしながら、やれることをやった上で、あとは希望を以って待てば、小さな種が大きく育つように、小さな教えが大きく育って、人が集まって幸せに暮らせる神の国に育つのだと伝えたイエスは人々に希望を与えたのです。
イエスは人々に希望を与えるために譬え話をしたのです。けっして「難しい教えを理解できる者になれ」と庶民に要求していません。
イエスは、学者気質じゃありませんから、譬え話というできるだけ簡単な方法で、自分の考えを伝えようとしたのです。
ところが、初代教会が組織された頃にはすでに「自分たち専門家には判るけれども、お前たち庶民には判らないだろう」という高慢な態度で民衆に教える特権階級のような教師がいたようです。そんな教師たちがイエスの譬え話を難しいものにしてしまったのだろうと考えました。だからマルコは、高慢な教師たちを批判するためにこの福音書を書いたのだと思います。
【譬え話に対する二つの見解】
今日はイエスが譬え話を用いた理由についてマルコ福音書に記録されている二箇所を読んでもらいました。まず初めの『たとえを用いて話す理由』という小見出しの箇所には、「イエスがひとりになられたとき、十二人と、イエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。」(マルコ 四章十節〜十二節)と書かれていました。
ここには、イエスの取り巻きには神の国の秘密が明かされているが、外部の者には譬えで示される。なぜなら、・・・赦されないためだとあります。理解できないようにわだわざ譬えで話した、なんて納得できません。岩波訳では「立ち返って赦されることになるかもしれない」と訳されていますけれども、いずれにせよ、判る人には判るだろう、というのでは、まるで頓知(とんち)話のようですから、譬え話は普通の話よりも返って難しいという印象を受けます。
もう一つの『たとえを用いて語る』という小見出しの箇所には、「イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、ご自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。(マルコ 四章三十三節〜三十四節)と書かれています。
ここには、直接イエスが語った言葉としてではなくて、著者マルコの見解が書かれているのですが、イエスは聞く人の程度に合わせて、すなわち、いろいろな状況の人が理解できるように譬えで話したとありますから、判りやすく伝えたということです。
譬え話に関するこれら二つの説明が矛盾していることがお判りいただけたでしょうか。
【弟子は譬え話を理解できない】
さらに興味を引くのは、十二人やその他の取り巻きたちには神の国の秘密が明示されているとか、弟子たちにはひそかに(譬えの)すべてを説明した、と書かれていることです。
判る人にだけ判ればいいから、部外者には譬えで話すが「弟子たちにはすべて説明してやる」なんて、部外者に対する意地悪(差別)のように思えます。しかし、よくよく考えてみて、そうではないことに気付きました。弟子たちには説明してやらなければならなかったのですから、弟子たちは判らない人ばっかりだったと暗示しているのです。
聞き手の能力に合わせて話したはずの譬え話が、弟子たちにはまったく通じていなかったなんて驚きです。弟子たちって本当にそれほど理解力がなかったのかなあ、まさかそこまでひどくないだろうと疑りたくなるほどです。ぼくたちの社会でも、ここまであからさまに他者を批判する人はいません。ましてや弟子たちをこれほど無能に描くなんて、マルコはよほど弟子たちを嫌っていたんでしょう。
ほとんどの人が理解できず、弟子たちにも説明してやらなければならないのが譬え話だったならば、譬え話なんかいりませんよね。ですから『たとえを用いて話す理由』という小見出しの箇所の説明はまったく馬鹿げています。
【イエスはなぜ譬え話をしたのか】
そもそも、お噺というものは、出来事を羅列している歴史年表と比べてみると、ぜんぜんちがうことが判ります。ぼくが昔学校で受けた社会科の授業のように、何年に何事件がありました、などと覚えさせるのではなく、事件が起きた背景には何があったのか、などを深く考えさせるために物語を教えてくれたら、楽しく勉強ができたろう、と残念です。とにかく、考えさせて、自分のことのように受け止めて、行動に活かせるように、という願いを込めて語られるのが物語だと思います。イエスが譬え話をした時にも、当然そのような狙いがあったはずです。
とにかく、譬え話なんて、だれでも判るようにと考えてイエスがなさったお話しなのですから難しいはずありません。
簡単であるはずの譬え話を難しいものだと教え、イエスから直接説明してもらった自分たちにしか判らないのだと教えたのは、自分の特権を守ろうとしてきた弟子たちやその後継者たちだと思います。彼らが、訳のわからない解釈をつけて譬え話を難しくしたのです。だから、マルコは彼らを批判して、イエスは誰にも判るように譬え話をしたのだ、と言いたかったんです。イエスが教えた事を判っていないのは弟子たちであるとマルコは弟子たちを批判したんです。
【ぼくたちは】
特権階級の専門家たちの解釈から離れましょう。なぜなら、イエスは専門家に解釈してもらわなくても判る譬え話でぼくたちに希望をもたせ、ぼくたちを励ましておられるからです。そしてそんなイエスを伝えることによって、マルコもぼくたちを励ましているからです。