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「カミング・アウト」20200308
「カミング・アウト」2020年3月8日
聖書 マタイ福音書 五章二十七節〜三十二節
新型ウイルスへの感染を防ぐ対策として、不要不急の外出を避けるように、という要請に応えて、連盟に属する八つの教会が礼拝を休んだようです。ぼくたちも休んだので、今日の説教は三月一日のために作ったものであることを、最初にお断りしておきます。
さて、あなたに「幸せ」になってほしくて、ぼくは説教を作っていますが、あなたが聞きたいと願っているのは、美しく正しい言葉、なんかじゃなくて、「ホッ」とした安らぎをあなたに与えてくれる言葉だろうと思いながら、今日の言葉を探しました。
【福音書記者マタイの教えは厳しい】
ところが、マタイ福音書のイエスは、律法を徹底的に守らなければならない、と教えています。律法を厳格に守ることなどできない、とあきらめさせるためならいいんですが、もし言葉どおりの要求があるなら、絶望するしかありません。例えば「君たちの義(正しさ)が律法学者やファリサイ派の義にまさらなければ決して天国に入ることはできない」(マタイ五章二十節)とあります。また、「仲間に、『あほ』とか『ばか』と言う者は地獄の火に投げ込まれる」(同 五章二十二節)とあります。さらに、「淫(みだ)らな思いで他人の妻を見る者は、心の中で、すでに姦淫(かんいん)を犯したのである。・・・右目が悪さをするなら、えぐり取ってしまえ。・・・右手が悪さをするなら切り取ってしまえ。体の一部がなくなっても全身が地獄に投げ込まれないほうがましだ」(同二十七節〜三十節)とも書かれています。もしも、この言葉に従えば、ぼくは、目が入っていないダルマさんのようになるしかありません。そうしなければ、ぼくは間違いなく、多分皆さんも、地獄行き決定です。
しかし、みんなを地獄行きにするような教えは、今までぼくがお伝えしてきたイエスの福音と合致しません。どう考えればいいんでしょうか。
【新しいオファー】
ところで、ぼくは、かれこれ十七年間も結婚式の司式を担当させていただいております。先日、初めての、特別なオファー(申し入れ・注文)をいただきました。女性同士の結婚式です。正直なところ、その時まで考えたこともありませんでした。
聖書が書かれた社会では、男と女の結婚しか考えられていません。同性の結婚は視野になかったので、聖書を調べても、直接的な示唆を見つけることはできません。近年になるまで、このような現実に直面しなかったキリスト教界も、考えて来なかったはずです。当然、同性愛に対しては否定的です。
ぼくも、結婚とか婚姻というのは、一組の男女が家庭を作るための儀式、あるいは社会組織上の決め事である、と考えていましたから、同性の二人が結婚する意味が理解できなかったので、同性者の結婚は必要ないと考えていました。これからは、そんなことが起こるだろう、という予感はありましたが、発注があっても断るつもりでしたから、それ以上考えなかったんですが、現実は突然やって来たんです。
担当のプランナーに訊くと、お二人は、ただ一緒に生活するだけじゃなくて、結婚という形で、関係を公にしたい、ということのようでした。
「そのオファーには応えられません」とぼくが断わってしまうことは簡単ですが、そうなると、他のお堅い牧師達も多分、受け入れないだろう、と予想しました。そうなってしまえば、二人は望む会場で結婚式を挙げられないことになってしまいます。
自分の思考の中にない、という理由で断わってしまうのは、ぼくの側では簡単なことですが、二人にとっては重大事なので、時間を置いて考えました。
【司式で気付かされた】
昔の教会は、信者以外の結婚式を引き受けることはしませんでした。「格好だけの結婚式はしない」という態度だったんです。式場から依頼されて司式だけする、なんてことは牧師の邪道だ、とぼくは思っていたんです。ところが、必要に迫られて、実際に司式をさせてもらってから、気付かされたことがあります。参列者は、オープンマインドで、メッセージを受け止めてくださる、という事実です。
一組の結婚式においても、カウンセリングの時間に、二人の前で、実際に聖書を開いて見せ、読んでから簡単に説明します。アーメンという言葉の意味もお知らせします。挙式中の二人の背後には、数名から多い時には百名の人々がいます。その人々に、聖書朗読を聞いてもらい、讃美歌を歌ってもらい、短いメッセージを聴いてもらいます。結婚式だから、皆さん、ぼくの言う通りにしてくださいます。そんなことを通して、教会もいいもんだなあ、と思ってもらえたら、最高だと判ったんです。
二千五百組以上させてもらいましたから、参列者数が平均二十名だと換算すると五万人に、何らかの影響を与えることができたことになりますので、意義あることだと思って、今は感謝して司式させてもらっています。このようなことに、ぼくの目が開かれるまでは、それほど多くの機会を、自ら捨てていたんだと気付きました。そうだとすれば、ただ断るんじゃなくて、二人の考えていることを聴いて、どのようにすれば二人の気持ちを受け入れることができるか、を考えてみようと思いました。そこで、まだ先のことですが、その場を設定してもらいました。
【イエスならどうするか】
イエスが生活なさっていた当時の宗教社会は、宗教の規範に合わないたくさんの人々を切り捨てていました。ところが、社会から認められていなかった人々とイエスは偏見なく付き合ったことが福音書を読めばわかります。イエス自身が差別されていた人ですから、当然ですけれども、イエスは誰も差別しない人へと育てられたんです。イエスの福音は、受け入れられていることを知り、互いに受け入れ合う愛の関係を教えることでした。
そうであるならば、イエスなら、この二人の気持ちをどのように受け止めるだろうか、と考えることにしました。
もちろん、イエスの時代に同性の結婚式はなかったので、直接の答えを聖書に見いだすことは不可能ですが、結婚に関しては、いくつかの言葉が残されております。例えば、「理由があれば、夫が妻を離縁することは律法にかなっているか」とファリサイ派がイエスに問いかけた物語があります。
そこには「読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女に作られた。男は父母と離れて妻と結ばれ、二人は一体となる。したがって、神が結び合わせたものを、人は話してはならない。・・・不法な結婚でもないのに、妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すのだ」とも書かれています。男中心の社会を代表して、男の立場で語られている言葉ですから、イエスの真言じゃなくて、男中心の教会を背負ったマタイの言葉だと思います。
その時の、弟子たちの反応が面白いので紹介しておきますと、「夫婦の関係がそんなことなら、妻を迎えない方がマシです」(同 十九章四節〜十節)と弟子たちは不平を言っております。どこまでも、男中心の視点で貫かれていることで判る通り、マタイの教会を背景にした言葉だと思います。
【イエスも初めの頃は差別していた】
独自の活動を始めた初期のイエスは、外国の女を差別していた、という説教を、前にしましたように、当時の社会の男たちと同様に、イエスも差別者でした。けれども、人に差はないことを、イエスは、自分が差別した女に諭(さと)され(マルコ七章二十四節〜三十節)たんです。その後のイエスは、子どもや女、病人、障害者、嫌われた職に就いていた人に加えて、外国人をも差別せず、福音を伝えることができるようになったんだと思います。
【イエスはただ受け入れた】
自分に会いにきた人に、「何をしてほしいのか」とイエスは尋ねました。そんな記事がいくつもあります。人々は、病気を治して欲しい、歩けるようになりたい、目が見えるようになりたい、などの望みを好き勝手に言います。そこで、イエスは、「そうなれ」とだけ言います。「神がそうしてくださるように」とは言いませんし、何も条件を出しません。
君の願いのように「そうなれ」と言うだけです。すると、自分の願いをそのまま受け止めてもらった人々は、願い通りの歩みを始めるようになるんです。強い願いや信仰への見返りとして、イエスから奇跡をいただくのだ、と考えていたぼくらの常識を覆(くつがえ)して、興味深いことに、なんの条件もなく、イエスは彼らの望みを叶えるんです。
イエスは、そのままの彼らを受け入れて、彼らの願いを、本人に返してあげただけです。相手のそのままを受け止めたイエスの生き様が、奇跡物語を生んだんです。
あなたも、隠さない自分を、そのまま認めてくれる人がいれば、嬉しいんじゃないでしょうか。
比較や価値判断にさらされず、何の請求もされないまま、受け止めてくれる人がいれば、優しくなれるし、力も湧いてくるでしょう。
【ぼくらは、求められる人間像じゃない】
ぼくらの住んでいる社会が、どんな人を求めているか、この社会で育てられたぼくたちは、よく知っています。ですから、求められる人になろう、とみんなが、努力してきたはずです。しかし、立ち止まって考えてみましょう。ぼくたちは、社会が求める理想的な人間じゃないことぐらい、本人が一番よく知っています。ただ、社会の要請があまりにも強いので、多くの人は、そのままの自分を出せないだけだと思います。多くの人は、自分を守ろうとして、自分の殻に閉じ籠(こも)ってしまうだけです。
しかし、自分の気持ちをそのままイエスに打ち明けた人は、そのままの姿と願いを、拒絶されることなく、受け止められました。それだけで元気になったんです。飾らない人を、そのまま受け止めただけで、イエスは、人を元気にしたんです。
【カミング・アウト】
常識に囚われていた人を、イエスは「自由になさった」と、ぼくはよく言ってきましたけれども、わかりにくい説明だった、と反省しています。
今日の説教のために調べた言葉で、これがいいなあ、と思いました。それは、説教の題にした「カミング・アウト」です。「隠していた秘密を明かす」という意味で使う人が多いですけれども、そうじゃなくて、カミング・アウト・オブ・ザ・クローゼット(押入れの外に出る)「恥ずかしがって隠れていないで、外に出る」という意味です。イエスは、本人のあるがままの姿を、そのまま受け止めた。ただそれだけで、その人はカミング・アウトしたんです。
【ぼくたちは】
イエスの生き様に魅せられて、ぼくは基本姿勢を決めました。イエスのように、ぼくも、出会った人を、そのまま受け入れることにします。このことによって、結果的に、ぼくの世界も広くなります。ぼく自身もカミング・アウトできるということです。あなたも、カミング・アウト・オブ・ザ・クローゼットして、広い世界に出て元気になりましょう。
日曜礼拝の様子をYouTubeでご覧いただけます。↓ ↓ ↓