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「偽善者の教えに従うな」20200216
「偽善者の教えに従うな」2020年2月16日
聖書 マタイ 二十三章十三節~十五節
あなたを慰め、喜ばせ、安心させる言葉は何か、と考えながら、ぼくは説教を作っています。なぜなら、あなたに「幸せ」になってほしいからです。
【考え方ですべては変わる】
簡単に「幸せ」って言ってしまいましたけれども、何が「幸せ」かって、改めて考えるとわかりません。「幸せ」や「不幸」というものは、明確な形で表現できるもんじゃありません。定義なんてできないもんです。そうであるにも関わらず、測れないものを測ろうとする人が多くて困ったもんです。
あの星とこの星はどちらが遠いか、と訊かれたら、難しいですが、手続きを踏めば、何億光年などと測れます。どうでもいいほど大きい距離であっても、尺度があるから測れます。でも「幸せ」と「不幸」を測ることはできません。
世界で一番「幸せ度の高い国」とか言って比べようとする人がいます。けれども、比べようがありません。問いには答えなければならない、と信じていると騙されます。こんな馬鹿げた質問には真剣に答えようとしてはなりません。質問自体がおかしい、と跳ね除けなければならない問題です。客観的な指標はないので、主体的な考え方次第で「幸せ」にも「不幸」にもなれるということです。
さて、年末年始のことです。「ぼくって贅沢しているんだなあ」と実感しました。理由を教えましょう。
正月には家族集まって豪華な食事をすることが慣例になっています。元旦は、そのように迎えるもんだ、という考え方がぼくの頭にあるからです。背景には、ぼく自身の子供の頃の体験があります。子供の頃は、高度経済成長期でした。しかし、忙しかった父も、元旦には揃って、みんなで挨拶をしてから食事を楽しみました。それがケジメでした。
今年は、息子夫婦が風邪を引いたので年末年始の食事を一緒にできませんでした。年末年始の予定が無くなったし、一月五日も休みにしていたので、まる二日間も自由な時間ができました。そんなわけで、日頃忙しく感じながら生活している中に、急に二日間の自由を手に入れたんですから、普段したくてもできなかったことを、すればいいのに、何もしませんでした。
たまたま、取り寄せておいた換気扇のモーターを交換しましたけれども、やらねばならないからやったんじゃなくて、好きなことをしただけです。時間を自由に使っていたので、苦にもなりませんでした。そんな生活は、だらだら過ごしているだけに見えたようです。
自由な時間があったのに、仕事に関わることを何もしないで、ダラダラ過ごしたことを、後ろめたく感じた時もあったんですが、その度に、自分を責める気持ちを振り払って、精一杯、ダラダラ過ごしました。自分で自分を責めたくなる気持ちは、ぼくにも、起こります。その気持ちを乗り越えるのは、結構辛いものです。しかし、ある時に、大きな気づきがあり、ぼくは考えを変えることができました。
みなさんが聞けば、ちょっとおかしい、と思うでしょうが、ぼくにとって大切な気づきでした。それは「ぼくは、すごく贅沢(ぜいたく)な時間を過ごしているんだなあ」という実感です。時間を無意味に過ごしていたんじゃなくて、「すっごい贅沢して優雅に過ごしたなあ」って思えたんです。いいご身分、いい性格でしょう。この二日間は、豪華クルーズ船に乗って南国を旅するよりも、ぼくにピッタリ合った贅沢な時間でした。正装してディナーを食べなくても、残り物で昼食をとりながらでも、贅沢できているなあ、と実感したんです。
他にも贅沢していることに気づきました。西野バプテスト教会は、半世紀近い歴史を持っています。この間に、増築、改築、修理などしてきましたから、多少の雨漏りはありますけれども、まだまだ使えます。五十名でも余裕で入れる会堂で、最近は五人くらいで日曜礼拝をすることが多くなりました。淋しいと言えば淋しくて、先行きが心配ですが、人数が少ないからということでがっくりすることもありません。たった五人で、この礼拝堂を自由に使っている、という贅沢を楽しんでおります。
小さいホールの方で礼拝すればいいじゃないかという意見がありましたけれども、せっかくある礼拝堂を使わない手はありません。贅沢に使っています。
小さな集会場を借りて、数十名で礼拝なさっている教会から見れば、よだれの出るような状況です。
でも、札幌の美味しい空気を東京に持っていけないのと同じように、この礼拝堂を東京にお届けすることはできません。贅沢に礼拝したければ、飛行機代を払って、人が、こちらにおいでになるしかないのであります。
とにかく、「すごく贅沢な環境で礼拝しているんだなあ」と実感したんです。あなたも、この贅沢を共有してみませんか。あと少しなら受け入れる余裕があります。早い者勝ちです。急いで来てください。
人を騙して勧誘する口調になってしまいました。撤回します。お許しください。いつでも歓迎です。
【ボケーッとしてていいじゃないか】
「ボケーッとしてんじゃねえよ」と言われるかもしれませんが、ボケーッとしていちゃいけない、というのはあなた自身の発想じゃなくて、他人から教えられたことです。他人の言葉に焦(あせ)らされちゃいけません。「ボケーッと過ごしてんじゃねえんだよ」ってぼくは言い返します。考えたりボケーッとしたり働いたり休んだり。自分で考えてしていることは、非難されることじゃありません。
家でも学校でも会社でも地域社会でも国でも宗教でも、目標を定め、そこに向かって邁進(まいしん)するようにと教えます。それに向かって努力して、望ましい結果を出した人を「良い子」、できない人を「悪い子」だと評価します。しかし、それは、家族、教師、上司、団体、神様にとっての「良い子」でしかありません。自分のためじゃありません。
事大主義を身に染み込まされた人は、教えられたことが正しいことだと思い込んでいるから、目標に向かって走り続けさせられているだけです。あなたを忙しくさせるのは、あなたに考える時間を与えないためなんですから、忙しい生き方をしていると、自分を失くしてしまいます。自分を失わないために、「ボケーッ」としてでも、自分で考える時間を作らなきゃダメです。落ち着いて考えてみてください。自分で自分をコントロールできるようになるために、一日に十分でいいから瞑想できますか。三分いや一分でも難しいでしょ。あなた自身の発想からこれほど忙しくしているんですか。違うでしょう。おかしいですよね。
あなたを教えた人たちは、ほぼ全員が、教えられたことが正しいと信じ込まされてきた人たちだから、あなたにも、そのように教えただけです。そして、あなたもそう思い込まされているだけです。しかし、教えられたことが正しい訳じゃありません。何かがおかしい、と気づくべきです。
【イエスは教師たちを偽善者と呼んだ】
二千年も前に生きたイエスの言葉を聞きましょう。
律法学者やファリサイ派の人々は、イエスが生活した社会では、厳格で絶対的な教師であり、社会の指導者でした。そんな人々を、偽善者だ、とイエスは公然と非難しました。
当時は、誰も言えなかった言葉を、イエスの口から聞いて、ハッと目が覚めた人々がいました。それは、律法によって押さえつけられていた人々です。律法の教えによって生きる範囲が決められたり、罪人と呼ばれて差別されていた人々は、理不尽な律法解釈に押しつぶされていました。おかしい、と思いながらも、そこから抜け出すことなどできない、とも思わされていました。しかし、イエスは、教えた教師たちを偽善者と呼んだんです。
それにしても、宗教意識を徹底的に叩き込まれていたはずのイエスが、どうして目覚めたのか、と不審に思う人がいるでしょう。それはイエス自身が抑圧を受けていた人だったからであって、神の子の知識を持っていたからじゃありません。
イエスは、当時の宗教社会が民衆に望む以上に宗教的になり、自己抑制をしようとして、禁欲主義者のヨハネの下に行き、荒野で禁欲的な修行をしました。しかし、どれほど修行しても、当時の宗教の縛りを克服することができないことを悟ったイエスは、全ての人は罪人であると教えた律法学者たちの教えそのものを疑いました。
律法の言葉を、まるで自分がモーセであるかのように、民衆に教えている律法学者やファリサイ派の人々の教えを否定するしかなかったんです。彼らの教えを否定することによって、自由な人間になったイエスは、その悟りを伝えずにはおけなかったんだと思います。
【現代版の律法学者やファリサイ派】
律法学者やファリサイ派の人々の現代版はどのような人々でしょうか。
ぼくらも、イエスが偽善者と呼んだ人々、すなわち現代版の律法学者やファリサイ派の人々から、民族としての律法や習慣や社会倫理などを教えられてきました。それらの規範から外れることはすべて「いけないこと」すなわち「罪」である、と教えられてきたんです。
教えられたことは「正しいこと」だとか、教えに従うことが「いいこと」だと思わされてきたんです。少しぐらい、おかしいんじゃないか、と疑りたくなっても、自分の方がおかしいんだ、と思うように育てられてきたので、反論できなかっただけです。
偉いはずの人が偉くないのが現実です。例えば、あなたには信頼できる政治家がいますか。いないでしょう。ではなぜ、そんな政治家に政策を任せているんですか。おかしいでしょう。ぼくらは、おかしいことをいっぱいしているんです。
多くの人は、律法に中途半端に従ってきたから中途半端に、生活できているだけです。徹底して律法の教えに従おうとすればするほど、できないことばかりであることは、はっきりしています。律法の教師たちも、決して満点を取れる人々じゃありません。そうであれば、律法による教えそのものがおかしい、と疑うべきです。新しい決め事を作って、できないことを、民衆に強要しているのが、現実の社会です。そういう仕組みが「おかしい」と気づくべきです。
イエスの言葉は、社会の常識を疑うきっかけを与えたので殺されたんです。イエスも偽善者の教師になることもできたはずです。民衆を裏切って、民衆を支配する側に立とうと思えばできたはずです。そうしていれば、安泰(あんたい)な金持ちになれたでしょう。しかし同時に、イエスの名は今まで残っていなかったでしょう。
【ぼくたちは】
あなたが騙されないで、自分に気づくために、イエスは命をかけて、教師や指導者を批判しました。だからあなたは、他人が決めた道を進むために、他人から高評価を得ようとしてはなりません。偽善者の教えを捨て、自分に帰ってください。
自分を感じることが、全ての出発点であり、目標であり、帰るべき所です。そのためには、偽善者の教えを捨てればいいだけです。偽善者の教えから逃げれば、「あなたは幸せに近い」。