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「励(はげ)ますだけでよい」20220327
「励(はげ)ますだけでよい」20220327
聖書 マルコ六章 十四節~二十九節
【プレビアス(これまでの)】
自分の言いたいことが誰にでも伝わるようにと考えてイエスは譬え話をなさったのです。ですから、譬え話が難しいはずありません。
ところが教会は、譬え話は、イエスから直接説明してもらった弟子たちにしか判らないのだ、と教えました。譬え話に訳のわからない解釈をつけ加えて難しくしたのは、弟子や後継者たちの特権を守るためでしょう。民衆を守るためではなくて特権階級を守るための教えを真(ま)に受けてはいけません。キリスト教のオーソドックス(正統)と思われている理念は、イエスご自身が伝えた考え方と大きく異なっています。
イエスが伝えた福音を引き継いだ弟子たちがキリスト教会を設立した、と教会は教えてきました。しかしそうではありません。イエスが伝えた福音とキリスト教が伝える福音は異なっています。イエスとキリスト教には断絶があることを前提にしなければ、ぼくたちの生き方を選ぶことはできません。
キリスト教はユダヤ教を土台にしています。だからユダヤ教についても少し知っておく必要があります。
【神の誕生】
神が授けて下さった律法に従って生活しなければ神の裁きを受けて滅ぼされる、とユダヤ教は教えます(律法は、本当はユダヤ教が編纂したものです)。ユダヤ教は古くからある宗教ですが、もちろんそれ以前から宗教と呼べるものは世界中に存在していたことが知られています。
人は自分という意識を持ち死を恐れるようになった頃から、生と死を含む全てを掌(つかさど)る「何か」を想像するようになったのでしょう。その「何か」をどう表現すればいいのかわからないので、とりあえず「神」と呼ぶことにします。
弱い人間が想像の中で作り出したのが、いわゆる「神」です。ですから、「神」は実在するものではなく、人間の思考の中に概念として存在するだけです。
ユダヤ教は、人間の弱さが作り出した概念の神に明確なイメージを与えて、神学を緻密に作り上げて神を規定した宗教の一つです。宗教が作り出した神は、更なる試練と恐怖を人間に与えただけで、人間に平安を与えませんでした。
【修行者ヨハネ】
ヨハネはユダヤ教の神を恐れていたので、神に仕えるために徹底的に自制して律法を極めようとしたのだと思います。修行者ヨハネはヘロデ王のスキャンダルを批判したことで首を刎ねられたのであって、けっして宗教的弾圧で殺されたのではありません。律法に従うという意味ではヨハネはユダヤ教の範疇から出ていません。イエスもユダヤ教の神を恐れ、徹底的に神に従おうとした人だと思います。だからヨハネの元で修行したのでしょう。
しかしイエスは、たとえ修行を積んでもユダヤ教の教えでは救われないことを体験しました。だからヨハネの元を去ったのでしょう。それは当然、ユダヤ教との決別をも意味します。
街の生活に戻ったイエスは、ユダヤ教の律法学者たちと議論し律法解釈と教義(理念)に徹底的に反発しました。その中で、ユダヤ教が教える概念の神を否定せざるを得なくなったのだと思います。イエスが「アバ(パパ)」という言葉を使ったことから、ユダヤ教の概念の神を捨てたことが判ります。
イエスはユダヤ教から離れ、ユダヤ教が教えた神から離れて、自分の考えによって生きることを選んだ人です。
ユダヤ教の律法に従うか否かにかかわらず、人はまずは愛されているのであって、神に対する罪などで罰せられたりしない、とイエスは教えました。律法から離れても、人が「アバ」に愛されていることはかわらないという考えに行き着いて、イエスは安らぐことができたのでしょう。そしてイエスは、この考え方を福音(良い情報)として人々に伝えたのだと思います。
だからイエスの福音に無理難題はありません。何も要求せず、人々に希望を与えただけです。
しかしこのような考えを聞かされても、みなさんも信じがたいでしょう。ユダヤ社会で育った弟子たちには、なおさら突飛すぎて理解できなかった、と想像できます。
イエスの後継者であると自認する人たちで組織された教会は、イエスの福音を理解できないまま、ユダヤ教の世界観に戻り、神、罪、贖い(あがない)という、刷り込まれた論理によってキリスト教神学を構築したのだと思います。
教会は罪を犯した全人類が審判を受けて滅ぼされないために、謝罪のための生贄(いけにえ)としてイエスが十字架に掛かって死んでくださったと教えます。私たちの身代わりの犠牲になって下さったイエスを救い主(メシア、キリスト)と信じれば救われると教えます。これがキリスト教が教える福音です。
このように、イエスご自身が伝えた福音とキリスト教が伝える福音がまったく異なっていることを理解していただけたでしょう。
【イエスに犠牲意識はない】
全人類の身代わりの生贄になる、という意志をイエスは持っていませんでした。イエスの福音には、自分が罪を贖(あがな)う供え物になってやるという考えはありません。イエスを犠牲の供物にしたのはキリスト教会です。
キリスト(メシア、救い主)というのは宗教的概念です。イエスは実在した人間です。ですからキリストとイエスは全く異なるものです。イエスとキリストの間には超えられない溝、超えてはならない溝があるのです。そこに無理やり橋を掛けて、イエス=キリストだと定義付けたのは組織化されたキリスト教会です。これらをイコール(イコール・等記号)で結びつけ、無理やり一つにしたところにキリスト教論理の破れがあります。この無理を乗り越えさせるために、キリスト教は一人一人に「信仰」を要求するのです。無理な論理を飛び越えさせるのが「信仰」であるというのはどの宗教も同じです。
社会の慣習になっている国の宗教に従わない生活をすれば、社会から放り出されます。個人的な反発であれば、それだけで済みます。しかし、そんな考えを大衆に発表し、賛同者がでてきたりすれば、社会から追放されるだけでは済みません。抹殺されます。
バプテスト・ヨハネが殺された事件を目の当たりにして、自分の考えを公に発表したイエスはすでに、殺される覚悟をしていました。もちろん、殺されたくなかったでしょう。しかし、殺される危険を承知の上で活動を始めたのです。福音派と自称する教会が教えているような「人類の罪を一身に引き受けて十字架にかかって死んでくださった」わけではありません。
【ぼくたちは】
ご機嫌伺いしなければならない神などいません。ケチ臭い神を規定する宗教から離れてよいのです。何もしなくても人は愛されているというのがイエスの福音なのです。イエスはこの福音を公に語ったから殺されたのです。宗教社会に抗(あらが)ってもイエスはそれを伝えずにはおれなかったのです。ぼくたちは、教会の福音から自由になって、イエスが伝えた励ましの福音だけを受け取り、伝えればよいのです。